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ぱすてる・たいむ
1 春 京都

  金沢友美には彼氏がいました。まだ横浜で女子高生していたころ、同じクラブの1年先輩にあこがれていたのですが、当の先輩から交際を申し込まれたのです。それから2年、交際は彼が東京の大学に進学した後も続き、同じ大学の同じ学部に進むんだと彼女は一生懸命受験勉強していました。
 異変が起きたのは2月のこと。もとより前の年の秋ごろから、彼は彼女を避けるようになっていたのですが、彼女は信じていました。彼が受験のとき自分は邪魔にならないよう、デートも控え、わがままも言わず、彼のことを応援していたからです。そして今、彼は私のために我慢してくれているんだと。だけど試験当日、会場となったその大学で、彼女は目撃します。
 彼が誰かとKISSしてる。
 後のことは覚えていません。後から後から涙が流れてきて、答案用紙にぽつんぽつんと落ちていく……。
 合格発表を彼女は見ませんでした。合格しているわけはないし、仮に通ったとしてももはやその大学に行く気はなくなっていたからです。
 春から金沢は京都で暮らすことになりました。試験に慣れるため京都の大学の同じ学部を受けていて、結局そこだけが合格していたからです。いよいよ京都に旅立つという晩。
「友美。ごめん。」
 彼はそれ以上何も言えず、金沢も何も言えず。やがて静かに受話器を置くと泣き崩れてしまいます。
「謝るくらいなら、ふらないでよ。……ふっちゃいやだよう。」
 それが本当の気持ちだったんだね。

 京都に移り住んだ金沢でしたが、大学生活にどうしてもなじめません。彼女は科学が好きでした。にもかかわらずこの学部を選んだのは、ひとえに彼のためだったのです。彼のいない現在、金沢は意味と目的を失っていました。自然、授業からは足が遠のきます。図書館に行って漠然と本を読み、そうでなければ1日中ぼーっとしている毎日。やがて桜は散り、風が暖かくなり、雨が降り続き……。余計に彼女の気持ちは滅入っていきます。
 そんな時彼女は、ふと読んだ本の中にこんな一節を見つけたのです。
「今でこそぼくは京都で暮らしているが、大学時代を北海道大学で過ごせたことはとても幸せに思う。札幌は緑と学問の街だった。」
 作者は、金沢も知っている有名な数学者でした。この文章を読んで、彼女は決めたのです。
 「札幌に行ってみよう、緑と学問の街を見てこよう。」
 彼女が札幌行きの切符を持って、寝台列車に飛び乗ったのは、それからまもなくのことです。

2 同じく春 札幌

「両親がきちんと保険に入っていてくれたから、今の私があるんですね。」
「田畑〜。そのシニカルな表現、なんとかならないのか。」
「事実なんだけどな。」
 田畑治郎は北海道大学教養部理T系2年、半年後に学部移行を控えていました。成績はきわめて優秀。行きたいところへ移行できた成績です。しかし、いまだに彼は進路を決めていませんでした。まあ大多数の北大生にとっては同じだったんでしょうが。ただどこでもいけたからまだ決めていなかったのではないのです。
「で、例の不動産屋はまだ来るのか。」
「函館から毎度ご苦労なことで。だけど札幌のアパートには全部の本は置けないんだな。残念ですがあの家は手放せませんな。」
「思い出の家だもんな。」
「収納スペースの問題ですよ……。」
「田畑〜。勘弁してくれ。」
 友人が投げ出したくなるも無理はありません。
 高校生のころ、田畑の両親は飛行機事故で亡くなりました。親戚もいたのですが、自分のことを大人だと思っていた彼は、親戚の援助を断り、両親が残してくれた財産を上手に使って大学に進学しました。
 しかし取りあえずの目標である大学進学を果たして、彼は目標を失っていました。それでも1年生のころはあれやこれやと行事が続きその波に乗って生活してきたのですが、大学が落ち着きを取り戻すころ、彼は自分のやりたいものが何なのかわからなくなっていたのです。
 だからと言って、親しい友人にさえもそんな素振りは見せませんでした。見せたくなかったのか、見せる術を知らなかったのか……。
 それでも時間は動いて行きます。

3 初夏 札幌

 田畑には妙な確信がありました。その確信とは、少なくとも北海道においては、一年の始まりは6月だというものです。
「こんないい季節を別にして、いつ1年が始まるというんだい。」
「科学者を標傍する田畑氏にしては珍しい議論ですな。」
「事実から推論できることですよ。いいですか……。」
 1年の始まりが1月だということは絶対ではない。例えば1月1日に何か特別の天文現象があるわけではない。決まってたのは復活祭などの宗教行事を何月何日にやるかということだけだ。1月1日というのはその結果に過ぎない。
 次に月の名の由来を考えてみよう。例えばディッセンバー、12月だけど元々の意味は10番目の月ということだ。1番目の月は元々3月。春だよね。1番いい季節だよ。植物が緑鮮やかに輝く春。むしろ1年の始まりは春というべきなんだ。日本語だって1月は新春だろ。
「新進歌手による新春シャンソンショーってか。」
 まぜっかえすんじゃない。それで北海道の1番いい季節が何か考えてみよう。北海道には梅雨がない。緑が一番鮮やかなのはいつだ?
「6月だな。確かに。」
 そうだろう。緑萌え、人々に活気が生まれるのは6月なんだよ。よって北海道においては1年の始まりが6月なのである。
「鐘が鳴るぞ。そろそろ。」
「次の授業パスね。」
「いいのか。」
「次、社会学だろう。科学者には必要ないね。」
「移行には必要だと思いますが……。」
「ノートよろしく。ではでは。」
 友人の次の言葉を聞く前に田畑はすたすた歩き始めていました。見送りながら友人は、
「しょうがないな。」とつぶやいています。

 将来が見えない田畑でしたが、一つ憧れたいたものはありました。「学究生活」。具体的な裏付けは全く無かったのですが、その言葉にひかれるものを感じていたのです。しかし一方では、学者になることに、彼自信が何のリアリティも感じていなかったのも事実です。単に科学が好きだってだけだったのかもしれません。
 そのくせ、なかなか自分の好きなことだけをやらせてはくれない大学の教養課程の授業に、彼は不満を持っていました。そして、いろいろ理由を付けては自主休講にして、自分の好きなことの書いてある本を持って植物園に向かうのでした。
 北海道大学付属植物園は札幌の本当の街の中にありました。北海道一の大都会のその真ん中にあったのですが、特段移転計画も出ず、原始の姿をそのままに残していたのです。かすかな丘と少しの谷と、結構うっそうとした森と気持ちの良い草原。そんな中、陽射しをいっぱいに浴びて自分の好きな本を読むのが、彼にとって一番いい時間だったのです。そして6月は草原に寝ころんで読書するには一番いい季節でした。
 この日は「光と物質の不思議な理論」。彼が私淑するファインマン教授の著書です。
「田畑さ〜ん。北大生は確かに入場無料ですけど、授業さぼっていいということではないですよ。」
 大学職員が声をかけます。しかし叱責する口調ではありません。田畑が来るのは毎度のことでしたし、一種お得意様なのでした。
「休講で〜す。信じてくださいよ。」(おいおい。)
「信じられますか〜。」
「は、は、は。」
 田畑はいつものように本を開きました。ページを追いながらうなずいてみたり、不思議な顔をしてみたり、本から目を離してぼーっと空を眺めてみたり。
 しかし、その日は特別気候がよかったせいか、いつのまにか眠り込んでいたのです。

「さっぽーろー、さっぽーろー」
 大阪発札幌行の寝台特急は定刻どおりに札幌に到着しました。真っ赤なヨットパーカーにギンガムチェックのキュロット。ちょっとくたびれたスニーカーに、本人が入ってしまいそうなトートバッグ。少女が一人ホームに立ちます。
「う〜ん。とても女子大生には見えないな。ファッションセンスがないね。私は。」
 京都から1500kmの距離を超えて金沢友美です。札幌に着いてまずは大きく伸び。
「この荷物を何とかしないと。」
 荷物をかかえてエスカレーターを降り、改札口を出て、きょろきょろ。
「あっちじゃない。」
 コインロッカーを見つけて、ボストンバッグごと放り込みます。そして駅前広場に出ました。
「さ〜て、どっちに行こうか。」
 といっても初めて来た街。何もわかりません。とりあえずまっすぐ歩き始めます。
 道の両側に何気なく建っているビル。それぞれ大きさも違うんだけど、行儀よく並んでいる。京都にはビルは並んでいない。横浜はこんなに行儀よくない。そして道の合間からずっと先まで見えるんだ。
「ひゃあ、なんか、すごいな。結構都会なんだ。」(失礼な)
 交差点に来る度に左の方を眺め、右の方を眺め、横断歩道の真ん中で立ち止まって同じように。
「赤レンガだ。」
 道庁旧庁舎を見て、人目もはばからず叫びます。そしてまっすぐ道路を渡ろうとして……。当然車のクラクション。
「いけない。またやっちゃった。」
 でも久しぶりに明るい笑顔。

「ここ公園なんですか。」
 道庁赤レンガ庁舎前。たまたま通りがかりの、書類袋を抱えたいかにも公務員に質問を始める金沢。
「え〜と、一応わが北海道庁の敷地ですが、よろしかったらどうぞ。」
「え〜と、あなたはここの職員ですか。」
「え〜と、一応そうですが。」
「え〜と、毎日こういう所で働けるんですか〜。いいですね〜。」
「え〜と……。」
 突然顔を見合わせて笑い出す二人。
「よろしかったら、将来あなたもいかかです。歓迎しますよ。どこの大学?」
「女子大生に見えますか。ありがとうございます。立命館です。」
「京都ですか。いいですね。」
「ここの方がいいですよ。邪魔をしてすみません。もう少し見ていっていいですか。」
「どうぞ、どうぞ。」
 公務員は立ち去ろうとしましたが、一つ思い付いたことがあるようです。
「そうだ。ここの裏の北大植物園に行ってみるといいですよ。きれいですよ。」
「ありがとうございます。」
 そして公務員は立ち去って行きました。

「本当だ。きれいだ〜。」
 道庁赤レンガ庁舎の裏にまわり、道路を一本越え、銀杏の並木を抜けた先に植物園の入口はありました。入場券を買って中に入ります。
「これで街の中なの。」
 とりあえずは順路に沿って散歩。沢があり、うっそうとした森があり、花壇があり、単なる野原があり、散歩する人、寝ころんでいる人、遊んでいる人。
 金沢は野原の中に売店を見つけました。
「紅茶ください。オレンジペコのアイスティがいいな。」
「はい、どうぞ。」
 紙コップの紅茶を両手に持ちながら、まわりを見渡しました。
「本当にここは大都会の中なのかな。」
 そんな中、彼女は顔に大きめの本をのっけて居眠りしている人を見つけました。からかおうなんて茶目っ気を出して近づいてみると、なんと彼が顔にのせているのは物理の本です。彼女はこんな町の中の植物園で物理の本を読みながら居眠りしているこの男の子に興味を持ちました。
「やっぱりからかってみようか。」

「お〜い。寝るな〜。寝たら死ぬぞ〜。」
 耳元で女の子の声がしたけど、田畑はすぐには気が付きません。
「あなたはスリーピングビューティーですか。KISSしちゃうぞ。」
 その言葉でようやく気が付く田畑。あわてて飛び起きます。本が足元まで飛んでいきます。
「お・は・よ。顔、真っ赤だよ。」
そして彼女は笑いだす。ずいぶん明るい声だね。
「え……。」
「いい本読んでるのね。」
「いい本って言われたのは初めてですよ。」
「いつもなんて言われるの?」
「難しい本ですね、すごいですね、って。後は話が続かない。」
 彼女はまた笑いだします。箸が転がってもおかしい時代って女の子にはあるもんなって、田畑は場違いなことをふと思いました。
「難しい本とは思いませんでした?」
「だって、私、物理好きですもん。」
「珍しいね。」
「そう言うと思ってた。」
「あ、ごめんなさい。」
 彼女はうふふと笑っただけで答えません。その笑顔が少しまぶしい田畑。
「それで、確率波という発想ってわかります?」
 彼女の質問にちょっと戸惑いましたが、もとよりそういう論争の好きな彼のこと、それは楽しそうに話し始めたのです。それにしても、金沢友美。彼女もしゃべる。加えて結構勉強しているようだ。大学生やっているとこういう瞬間が楽しいんだよね。時間は瞬く間に過ぎていきます。
「楽しそうに語らいの時間を持っておられることは、当植物園の喜びとするところではあるのですが……。」
 さっき受付で声をかけてきた職員。
「閉園して、楽しきわが家に私も帰ろうと思うのですが、かなわぬ想いでしょうか。田畑さん。」
「え、そんな時間なの。」
「はい。見事に5時を回りました。今日は夜間開園もしておりません。」
「ごめんなさい。今帰りま〜す。」
 二人は門へと向かい、外に出ました。後ろで門の閉まる音。
「田畑さん。たまには講義に出ましょうね。」
 彼女がまた笑ってる。「変なところを見られたな。」
「た・ば・た・さん?私、話し足りないな。」
「じゃあ、私の家に来ませんか。もしよろしければ。」
「は〜い。連れてってください。」
 彼自身女の子を誘ったことなんてなかったんだけど、この日は自然にこういう言葉が出たのが不思議でした。そして何よりももっと物理の話をしたかったというのがあって、彼女の個人的なことなど全く興味がなかったのです。
 田畑の家は大学から近い北22条西2丁目にありました。地下鉄の駅の近くで、繁華街の近くで、それでいて結構静かな住宅街の2階建のアパート。隣りは庭付きの一軒家。そこの2階の一番東が彼の部屋です。
「いいところですね。」
「時々暴走族がうるさいんですよ。まあどうぞ。」
 中に入って座蒲団しいて、彼女を座らせた後、台所に立つ彼。
「コーヒーにします?紅茶がいいですか。」
「紅茶お願いします。」

「はい。どうぞ。」
「ありがとう。それでね……。」
 物理が好きな二人の話は終わることがありません。

 田畑があくびをしてふと気が付くと外は明るい空。
「徹夜しちゃったね。」
 彼女は微笑みながらあっさりと言ったものです。

「さようなら。」
 彼女は明るい笑顔を残して帰っていきました。
 田畑は後で気が付くのです。彼女の名前も何もわからないことに。
「まあ、いいか。」
 おもしろかった一日でした。でも同時にちょっとした日常からの逸脱に過ぎないことも彼は知っていたのです。彼女が帰った後はまたいつもの日々が続くのでした。

 金沢は帰りしな、アパートの一階に空室の表示と連絡先が書いてあることに気が付きました。しばらくこの街に住んでみようかな。突然ここに来たら、田畑さんびっくりするだろうな、なんてね。
「どうしたの、一人でくすくす笑って。」
「あ。なんでもないです。う、ふ、ふ。」
 地下鉄北24条の駅で田畑と別れた後、金沢はさっきの連絡先に電話をかけ、
「一階の部屋、見せてもらえますか。」
 さも初めて来たような顔でなにげなく。
「それじゃあお願いします。」
 契約書などいろいろ書いて、説明を受け、鍵を受け取りました。
 そしてせっかく来たのだからと、金沢は道東旅行に出かけたのです。
「だってすぐ移ったら怪しまれるじゃない。」

4 麦秋 札幌

 道東旅行から帰ると金沢は田畑の部屋の下に移ってきました。もっとも京都の部屋はそのままにしてきたので、荷物と言っても、札幌に来るときに持ってきたかばんくらいなもの。
「さすがにこれでは暮らせないよね。」
 幸いにして北24条は繁華街、生活に必要な物品はすぐそろいます。
「この出費は痛いな。」
 そう言いつつも、金沢は期待の方が大きかったのです。何かが見つかるかも知れない、そんな期待に。

 街を歩いていると知らず知らず汗ばんでいたころ。金沢と話をしたことなど田畑が忘れかけていたころ。
 下の部屋で何やら不穏な動きがある。配達に来る人の多いこと。
「今度引っ越してきた金沢です。よろしく。おそばどうぞ。」
 どこかで見たことのある少女だな。え?
 一瞬誰だか気が付かなかったのです。植物園の情景を次に思いだし、そして名前を聞き忘れた女の子だと認識しました。その間約3秒。金沢は植物園の時と同じように田畑の表情を見て楽しんでいます。
「今度下の部屋に引っ越してきたんですよ。3号室です。遊びに来てくださいね。」
「あ、はい。」
「それじゃあ。また。」
 金沢は微笑を残して去っていきました。

 間違いなく田畑の足取りは軽くなっていました。
「田畑さんはいつも反応がにぶいんだ。」
 そう言いながら足取りが軽くなっていたのは、金沢も一緒。

 それからというもの、金沢は毎日のように田畑の部屋に行きました。夜8時、チャイムがあるのにドアをノックする音。
「どうぞお入りください。紅茶でいいの?」
「貴族は熱い紅茶を飲まないとね。ああ。裏切り者!アイスティーなど飲みおって。」
 金沢が叫びます。
「猫舌なんですよ。かんべんしてくださいよ。」
「え〜い許さぬ。貴様それでも英国男子貴族か。」
「だから日本人なんだって。」
 紅茶とお菓子を用意して、二人向かい合う。だけど話すのは恋のロマンスではなくて、物理やら数学やら科学一般の話やら、時にとりとめのさいことも。
「そろそろ帰らないとね。」
 10時ころには彼女が帰っていきます。
 7月と言えば北大の2年生の期末試験の時期です。さすがに田畑も試験勉強をするのではありますが、やはり女の子と話をするほうが楽しいに決まっています。しかもサイエンスの話とくればね。
「さあ、やるか。」
 金沢の帰った後、妙にやる気の出てくる田畑。彼もまた彼女のノックを心待ちにしていたのです。

 試験も無事終り、夏休みに突入。いつもの喫茶店に行く田畑。
「いらっしゃいませ。」
 妙に明るい、それでいて聞き覚えのある声。
「金沢さん?」
「う、ふ、ふ、何にしましょうか。お客様。」
「まずは椅子に座らせておくれ。ウェートレス様。……いつものクリームシチューにしておくれ。マスター。」
「はいよ。」
「この暑いのにクリームシチューですか。お客様。」
「だって好きなんだものしょうがない。それより、その『お客様』ってのどうにかならないの?」
「お客様はお客様ですわ、お客様」
「ほら、お客様が来たようだよ。」
「ほんとだ。いらっしゃいませ。」
 くるくる、くるくる、忙しそうに。でもそんなのを見てるのもいいね。
「シチューお待たせ。ずいぶん人間がまるくなったんじゃない。」
「誰が?」
「さあね。」
「え、誰の話?」
 マスターと田畑の間の話に金沢が割り込みます。
「いいから仕事しなさい。」
「は〜い。」
 また彼女は仕事に戻ります。その動きを目で追う田畑。ふいにマスターがさえぎって。
「で、移行先決めたのか。」
「うん、理論物理学講座行こうと思って。」
「相変わらず生活できない所を選ぶよな。」
「大学時代にやったことで飯を食っていこうというのは不純なんだな。」
「世間の大学生に対する期待を見事に裏切ってるな。」
「マスター。」
「なんだい。」
「どこの大学?」
「……北海道大学。」
「どこの学部?」
「……法学部。」
「さすが社会に有為な人材を育てておられる。」
「そうだろう。」
「ねえ、ねえ、何の話。」
「あなたはお仕事中です。」
 無言で戻る金沢……な訳ないか。くるっと向き直って、指をさし、
「田畑さん。少し人間が固いぞ。」

 とんとんとん。金沢が田畑の部屋をノックします。
「どうぞ。」
「おじゃましま……暑い、何してるの。」
 部屋に入るなり金沢があきれてます。
「シチューを作っているのだな。何か食べたくなってね。」
「昨日店で食べたばかりなのに?。」
「好きなものは好きなんです。」
「暑いから、窓開けようよ。」
「金沢さん。人の話を聞いてないでしょう。」
「暑い!」
 いったん彼が黙ったので、彼女が機嫌を伺うかのように顔をのぞきこみます。怒ってないよという表情を見せたので、安心して、
「移行先決めたんですか。」
「理論物理学講座にしました。何かね、あなたと話をしていて、ああやっぱり自分はこういう話をしているのが好きなんだな、って思ってね。ありがとう。」
「え、わたし?いや、なんか照れますね。」
「なんかこっちまで照れますな。」
 顔を見合わせて微笑む二人

「お疲れ様でした。」
「気を付けてお帰り。」
「大丈夫ですよ、マスター、近くですから。」
 バイトを終え、家路を急ぐ金沢。でも気分は浮いていました。ふと思い出したのが高校時代の友人のこと。仲がよくて。一緒に泣いたこともあったね。
「ねー、陽子。金沢です。元気してる?」
「うん、元気、元気、友美は?」
「元気してる〜。」
 女の子の会話だな。
「で、友美さあ、アパート移ったの?電話かけても出ないから。」
「う〜ん。今ね、札幌にいるんだ。」
「旅行なの?」
「うん。こっちに来てるの〜。」
「それでね……。」
 陽子が少し口ごもりました。
「彼がね……。シングルになったらしくて……。それで友美と話したいって言ってるんだよね。冗談じゃないって断わってるんだけど……。ごめん、忘れて。」
「ううん。いいの。気にしないで。」
「……友美。がんばろうね。」
「うん……。」
 繁華街の中の電話ボックス。流れていく車の光と人の動き。でも金沢には何も見えず、何も聞こえなくなっていました。

 午後8時、金沢は来ません。田畑は最初彼女に何かあったのだろうかと思い、よっぽど下の部屋に行こうかと考えました。しかし、たぶん何もないだろうと思い直し、そのまま寝てしまったのです。

 翌日、金沢は何事もなかったように田畑の部屋に来て話をしていきました。だけど、今日に限ってはなかなか帰ろうとしません。話がそれほど盛り上がっている訳でもないのに。二人の会話がふと途切れたのをきっかけに田畑はおそるおそる聞いてみました。
「昨日、どうしたの。」
 金沢の顔が一瞬くもる。困ったような表情を見せる。あわてて彼が話題を変える。
「ともみっていい名前だね。」
 彼女は待ってましたとばかり、
「やっぱり、そう読むよね。」
「違うの?」
「友美って書いて『ゆうみ』と読むんですよ。親ももう少し単純な読み方にしてくれれば良かったのにね。みんななかなかそう読んでくれないんだ。」
「いいなまえですよ。」
「そうですか〜?ありがとうございます〜。それでね……」
 金沢が言葉を継いで、
「……今日、こっちに泊まっても……、いいですか。」
 田畑は言葉を失ってしまう。
「変なこと言っちゃったな。忘れてください。帰ります。」
 金沢さん、どうしたの。でも……。
「いいよ。泊まっていきなさい。」
 とたんに金沢の表情が明るくなる。本当に表情豊かな子だな。
「ありがとう。お風呂借ります。そうだタオルとパジャマ持ってこないと。」
 なんか修学旅行みたいだぞ。ぱたぱたぱた。金沢は慌ただしくお湯を溜め、自分の部屋に戻り、着替えを抱えて走って戻ってくる。
「シャンプーとか石鹸は貸してもらえますよね。」
 はいはい。
「のぞいちゃだめですよ。」
「わかりました。」
 普通だったら男もそわそわするだろうシチュエーション。田畑だってその気持ちは否定できません。しかし、それ以上に何か奇妙な感覚を持っていました。金沢がきわめて普通に振る舞ったせいかもしれません。

「お休みなさい。」
 田畑は当然のように床に横になり、電気を消しました。
 しばらくして、金沢が小声で話しかけてきます。
「私のこと、変な女だと思ってるでしょう。」
「そんなことないですよ。少なくともぼくも変わってる方だし。」
 金沢がくすくす笑う。そして……。
「床じゃ寝にくいでしょう。おふとんにどうぞ。」

「ゆ・う・み……。」

 次の朝、田畑は早く目が覚めました。ふと見ると金沢はまだ眠っています。起こさないようそっとふとんから離れ、台所に立ってハムエッグを作り始めました。
「パンは起きたら焼けばいいや。」
 お湯を沸かしてポットに入れます。
 やがてすることがなくなって、彼女の耳元でそっとささやく。
「朝ですよ。」
「ふとんさん。ふとんさん。離れたくないの〜。」
 言ったきり。金沢は寝ぼけています。田畑はそういう金沢の顔を見ながら、幸せな気分にひたっていました。

5 盛夏 札幌

 歯ブラシ、タオル、パジャマ、田畑の部屋に金沢の物が増えていきました。彼女は結構気ままに泊まったり、帰ったりして、
「まるで猫だな。」
と、田畑がつぶやくような生活をしていました。

 北海道は涼しいと思っている人が多いのは事実です。東京のような半ば亜熱帯気候のような所から見れば、確かに北海道は涼しいでしょう。でも、それは東京が異常に暑いからなのです。北海道だって夏は暑いんです。冷房が必要になります。
 そして夏は、男の子にとって楽しい季節です。暑ければ必然的に薄着になります。生地は薄く、袖は短くなります。
 学問が好きな田畑でしたが、そこはやはり男の子、街行く女の子があざやかになっていけば、つい振り向いてしまいます。
 ところが、今年は違いました。
 金沢にとっては何でもないことだったのでしょうが、彼女もまた街行く女の子でした。見つめる先はいつも金沢。彼女はいつも近くにいて、他の女の子に振り向く余裕なんてない。
「ねえ、何考えてるんですか。」
 そうだね、あなたはいつも近くにいる。

 夏は女の子にとっても楽しい季節です。それは重ね着などはできないけれど、色とりどりに、大胆に装うことができるのは何と言っても夏。時折感じる視線がちょっといい気持ち。
 でも、金沢にとってはどうでもよいことでした。
 田畑にとってはなんでもないことだったのでしょうが、振り向くと彼はいつもそこにいます。歩く姿を見つめていると、何とも言えない安心感。視線をしっかり受け止めてくれる。
「どうしたの?」
 そうだね、あなたはいつも近くにいる。

 その日以来金沢は田畑の近くにいるようになりました。大学は既に夏休み。裕福にはほど遠い田畑のアパート、冷房なんてある訳ない。暑い。一階の金沢の部屋なんて和をかけて暑い。
 ピンポン。部屋の呼び鈴が鳴る。田畑が応対に出る。いかにも暑さでグロッキーな金沢が立っている。
「田畑さん、暑い。あついよ〜。なんとかして。」
「そんなこと言われても。」
「涼しいところ行こうよ。」
 田畑は沈思黙考、そして、
「……本屋さん、行く?」
「うん、行く!」
 このさい、地下鉄代をけちってはいられません。一人なら自転車で出かけるところだけれど、横を歩く金沢の「暑い」コールはとどまるところを知らないであろうと。
 札幌に限らずちょっと大きめの書店では必ず冷房が入るようになりました。立ち読みという風習は日本にしか見られないそうですが、涼しいところで本の海にただようというのは、田畑にとっては結構得難い時間だったのです。
 本屋に入ると大抵二人は別行動をとります。たまには一方がもう一方に寄っていってのぞきこむことはありますが、自然に離れたり、打ち合わせもなく待ち合わせたり。
「お茶でもいかがです?おぢやうちゃん。」
「きゃん。」
 慣れないナンパと妙な猫撫で声。思わず金沢の背筋に寒気が走る。
「もう田畑さんたら。やめてください。」
「あはは。ごめん、ごめん。で、何読んでるの?」
 田畑が金沢の手元をのぞきこんで。
「ファインマンさんですか。相変わらず渋いですね。」
「田畑さんと初めて会った時読んでた人ですよ。」
「そう、そのとおり。よく覚えていたね。」
「当然です。」
「おっと強気の発言。」
「え、へ、へ。」
 いたずらっぽく金沢が笑う。その頭をぽんぽんと田畑が軽くたたく。
「それで、金沢さん提案ですが……。」
 ここで田畑がちょっと間を置く。しっかりと見つめる金沢。
「そろそろ植物園に行きません?涼しくなってきたし、自然の風は気持ちいいですよ。」
「賛成で〜す。」
「暑いって連発するのは、なしですよ。」
「は〜い。」
 本屋を出て植物園に向かう二人。陽射しはかなり弱くなっています。少しは涼しくなったけど、樹の葉の間から差し込んでくる陽の光がやっぱりまぶしい。
 やがて植物園正門。
「田畑さん。また、さぼりですか〜。」
 職員が声をかけます。その横で金沢が笑ってます。
「自主休講ですってば。しかも、今日は夏休み。」
 田畑が切り返すが職員の勝ちだね。
「ほんと、ここっていいよね。好き。」
「今まで知らなかったの。」
 ちょっと答につまる彼女。
「開放されてるとは思わなかったんだ。入場料金取るのは卑怯だぞ。」
「どうも、すみません。」
 緑のじゅうたんの中、二人で散歩しています。明治以来の原始林を抜け、ゆるやかな丘に出ました。
「ここで居眠りしてたんだよね。」
「よく覚えてるね。」
 もちろんよ。彼女は心の中でささやきました。でも言葉には出しません。
「紅茶買ってくるね。」
 ぱたぱたぱた。駆け出す金沢。
「こういうのもいいね。」
 田畑は心からそう思ったのです。やがて二人は草原に腰をおろし……。
「よく熱いのが飲めるね。」
「紅茶は熱いものです。汗もひくよ。」

 大きなはるにれの樹の陰で、田畑は幹に背を預けまどろんでいます。金沢は、田畑の伸ばした足を枕に、こちらはすーすー寝息をたてて眠ってしまいました。

6 新秋 札幌

 北海道も9月になれば街に秋風、寂しげで色あざやかな季節。そして北大2年生にとっては恐怖の学部移行の季節。
 入学試験の際には教養部の何系というところまでしか決まらず、教養部における成績によって初めて学部学科が決まるという北大独自の制度は、良くも悪くもある種の北大らしさというものを残しているのでありました。一方では教養部における受験戦争という弊害ももたらしていたのですが。
 授業をさぼっていたとはいえ、
「試験に落ちるはずない。」
なんて根拠のない自信など田畑にはなかったですし、移行の結果はやっぱり気になります。教養部の掲示板に移行の結果が発表されると彼もいそいそと出かけていきました。
「やりい。」
 第一志望の理学部理論物理学科に無事移行できました。

 その日、田畑はやってきた金沢に、自分が無事移行できたことを話しました。彼女はたいそう喜んだ様子で、
「それでは田畑さんの大好きなクリームシチューを作ってあげましょう。」
と言って、買い物に出かけてしまいます。
「もっと話がしたいのに。」
 田畑はちょっと拍子抜け。

 やがてスーパーから帰ってきた彼女が見たのは、まぐろのように眠っている彼の姿。勝手知ったるなんとやら。押し入れから毛布を出して、彼にかけてあげました。
「やっぱり不安だったんだね……。いつまでもこうしていれたらいいね。」
 彼女が台所に立つこと1時間。おいしそうなにおいがたちこめてきて、彼が目を覚まします。そういえば金沢さんの料理を食べるのは初めてだね。後ろから寄っていって、おたまを持って、
「どれ。」
 鍋からひとすくい。
「田畑さん。ずいぶん大胆なつまみ食いですね。」
「おほめの言葉をいただき、ありがとう。おいしいよ、これ。」
「ありがとう。うれしいな。」
 いつもは紅茶にお菓子が並ぶテーブルの上に今日は鍋とシチュー。酒もないのになぜか二人は盛り上がり、どんちゃん騒ぎの夜は更けます。

 でも自室に帰った金沢は少し寂しそう。
「田畑さんはきちんと自分のやりたいことを見つけているのに。私は逃げているばっかりで、自分のことさえきちんと話せないでいる……。でも一緒にいたい。いつまでも一緒にいたい……。」

「ねえ、陽子、元気してる……?」
「どうしたの、友美、元気じゃないぞ。」
「うん……。私ね、きっと私だけを好きでいてくれる人がよかったんだよね。」

 彼女が元気をなくしていることは彼にもわかりました。でもできるだけ明るく振る舞おうとする彼女を見ると、何も言えなくなってしまったのです。
 さりとて全く忘れてしまうこともできません。やっとのことで彼は口に出しました。
「どうしたの金沢さん。」
「えっ?」
「よかったら話してくれませんか。」
 黙ってしまう金沢、それ以上何も言えない田畑。二人の間に長い時間が流れていく。
「このままの私じゃだめですか。」
「え?」
「このままのわたしじゃ……。」
 さらに長い沈黙。金沢がさよならと言ったか言わないか、田畑には記憶がありません。
駆け降りる金沢。ただ立ち尽くす田畑。冷たい夜の秋風。

 以来金沢が田畑の前に現れることはありませんでした。

7 仲秋 札幌

 学部移行にともない、北大の2年生は教養部に籍を残したまま、そして第2外国語を学ぶために教養部に戻るほかは、学部の専門課程の抗議へ組み込まれていきます。教養部の授業にあまり興味をもたずひたすら植物園に逃げていた田畑にとっては待望の学部移行でした。
 しかし何か物足りないのです。心の中にもやもやとしたものが残っているのです。例えば物理の本を読んでいても集中できない。講義の中でふと気が付いてみると聞き逃している部分がある。夜がなんだか長すぎる。
「秋だから、夜が長いんだ。」
 そう思おうとしても、どうしても一つの考えが頭から離れないのです。
 もし、あのとき、聞かなかったなら。
 過去のことを後悔したって始まらないのに、だけど考えずにはいられない。

 ある日田畑は、大家さんの所を尋ねました。ちょうど家賃を払うころだったのです。
「1階3号室の子、どうしたんですか。」
「あの、元気な子ね。この前、お世話になりましたってあいさつしていきましたよ。」
「連絡先わかります。」
「入るとき聞いたけど。で、田畑さん連絡先聞いてどうするの?」
「本借りっぱなしのがあって、返さないとだめでしょ。」
 自分にしては上出来だなと田畑は思いました。
 大家さんは納得したらしく、住所と電話番号を教えてくれました。さっそく田畑は電話をかけたのです。
「この電話は現在使われておりません。」
 最初は自分のかけ間違いだと思いました。しかし、番号を何度確かめてかけ直しても応答は変わりません。
 手紙も書きました。だけど転居先不明で戻ってきます。

 金沢がずいぶん前に合鍵を渡してくれたことを思い出しました。まわりの人に怪しまれないように入ってみます。
 そこは何もない空き部屋。彼女の生活の跡は全く残っていません。

 別に講義が嫌いな訳ではないのですが、正直なところ風はもう肌寒かったのですが、田畑は植物園によく出かけては、何とはなしに本を読んでいました。6月のあの日のように彼女が突然現れて、楽しそうに話をしてくれるのではないか。確信があるわけではなく、だけどあきらめきれず、そんなことを繰り返していたのです。
「寒いのに良く来ますね。移行できたんですか。」
「6月ころに、閉園時間だっていって追い出されたことがあったでしょ。」
「それはどうも失礼しました。」
「あの時、ぼくと一緒にいた女の子、覚えてます?」
「え〜と、あの明るい若い子のこと?なんとなく覚えてるよ。」
「若いんですか。」
「たぶん、あなたより若いはずだよ。」
「最近彼女ここに来ます?」
「あなたと一緒にいるときしかみてないな。」
「そうですか。」
「元気だしなさいよ、常連さん。」

 たぶん彼女はいないんだよね。

8 初冬 札幌

 田畑はいつしか、いつもの生活に戻っていました。もうゆきもちらつき始めたので植物園でのんびり本を読むわけにはいきません。だけど、専門の話はやっぱりおもしろく、講義には熱心に通うようになりました。彼女がいないこともまた日常になっていたのです。日常でなかったのは、むしろこの夏の数ヶ月だったんだと彼は思い始めていました。
 彼女がいなくなって、最初のうちは心当たりを探し回りました。だけど名前しかわからないのではどうしようもありません。
 街を歩いていても、彼女に似た女の子を見つけるとつい振り向いてしまいます。そしてその度に彼女がいないことを再確認するのです。
 そんなことを繰り返し、繰り返し、らせん階段をくだるようにゆっくりと、だけど着実に、心が着地するのだと思えました。ただ、なぜ心が騒いだのか、これは彼にはなかなかわかりません。
 時折鳴る電話のベルに、彼女からのコールを期待するものの、電話に出る寸前に切れたりして。

 駅前通り、都会の雑踏、冬色のショーウインドー、真っ赤なコート。
「金沢さん、似合うだろうな、プレゼントしようかな。」
 ふと口をついて出た独り言、そして涙。
 そうだね。金沢さんはいないんだよね。

 季節は確実に変わっていきます。そして人間も確実に変わっていきます。6月の田畑と11月の田畑はきっとどこかが違うのでしょう。それがなぜなのかはわかりません。成長なのかどうかもわかりません。いいことかどうかもわかりません。
 だけど変わらないものもあります。それは例えばメモリー。普段は思い出さないだけで何かの折に現れる不思議な気持ち。それはいつまでも古くなることがない……。

 そうか、そうだったんだ。

「……ぼくは、あなたが、好きでした。」
 いつまでも色あせない、淡いトーンの想い出。

                         ぱすてる・たいむ おしまい……

 だけどね、時間というものは相対的なものなんだよ……。

6.2 新秋 札幌

「マスター。暇をください。」
「どうしたの。」
「京都に帰ります。」
「そうか、京都の人だったんだ。」
「それでね、私、必ず戻ってきますから、その時はまた雇ってくれますか?」
「うん、いいよ。」
「私、この街が好きだから。」
 ここでマスターがからかいます。
「田畑のいない札幌は?」
 金沢は顔を赤らめて。
「今帰らないと、いつか壊れてしまうと思うんです。」
「そうかもしれないね。……じゃあこれ給料ね。」
「こんなにいいんですか。」
「働き者にはボーナスをあげようということで。がんばるんだよ。」
「はい。ありがとうございます。」
 次の日の札幌駅。大阪行きの寝台列車は昼間の出発。来たときと同じだけの荷物。だけど、彼女は発車間際までホームに立ち尽くしていました。視線の先には北海道大学理学部数物系の建物、それに北22条。
「また絶対来るんだから……。」
 だけど金沢の眼から一筋の涙。

7.2 仲秋 京都

「やっぱり国立大学ってむずかしいのね。」
 金沢は書店で参考書を買い込みます。こんなことになるなんて思っていなかったから、去年使ったものは全て処分しています。全くの二重投資になってしまった。費用といえばセンター試験の受験手続も済まさなければ。
「しかも普通の受験生に6ヶ月のハンデだよね。取り返さないと。」
 でも何とかなるよね。そう思うことにしよう。

「陽子、元気してる。京都から友美でした。」
「何それ、特派員報告?」
「……陽子もずいぶん古いこと言うね。」
「で、どうしてる?」
「受験勉強してるよ。なんと。」
「え〜っ大学やめちゃうの。もったいない。」
「うん。もったいないおばけが出る出る。でもさ〜。」
「なに?」
「やりたいことがあるのに我慢することはないのよね。」
「うん。そのとおり。」
「とりあえず近場の目標から順次かなえていこうとことで。」
「友美、建設的な発想は評価できるぞ。」
「おほめのお言葉を頂き、光栄でござります〜。」
「くるしゅうない。よきにはからえ、きゃはきゃは。で、どこ受けるの。」
「北海道大学理 系、理学部に行く科学少女なんだぞ。」
「通ればね。でも友美と言えば科学だもんね。がんばるんだぞ。」

8.2 新春 京都

 熱中していると時の経過は早いと言います。時間の尺度は相対的、かつ伸縮自在なんだよね。
「わあ、もうセンター試験だ。」
 気になるのは大学入試、それに田畑のこと。ときおり思い余って電話をかけます。
「つー、つー……。」
 でも、今、声を聞いたら泣いてしまう。すぐにも会いに行ってしまいそう。そう思ってすぐに受話器を置くのでした。
「田畑さん、行ってきます。」
 試験の日、だれもいない部屋に向かって、彼女は声をかけました。

9 厳冬 札幌

「ねえ、マスター、ミネストローネ作れる。」
「おまえ。この店をシチュー専門店にしたいのか。クリームシチューといい、クラムチャウダーといい……。」
「ここのコーヒーも紅茶もいまいちやん。」
「ここは喫茶店である!」
「マスター、ここの免許は?法学部ならわかるよね。」
「飲食店免許。」
「マスターの資格は。」
「調理師。」
「勝利!」
「違う、何かが違う。」
「で、さあ、金沢さん、辞めちゃったんだよね。」
「そうだよ。」
「なんかこうものたりないんだよね。なんか
いいことないかな。」
「いいことはいいこと屋さんに行って1000円で買ってくるか。」
「それはいいかもしれないね。」
「だからさ……。」
 マスターが続ける。
「女の子は一人一人が宇宙なんだよ。とてもぼくらが全部を知りえるものではないんだけど。だけど、知りたいという心は止まらない。そこでぼくらのできることは?科学の原則だね。」
「事実を認識すること。正確に記述すること。可能性を否定しないこと。それから……。」
 最後のせりふは二人同時でした。
「けっしてあきらめないこと。」
 マスターが続ける。
「いいことって君がそう思うからいいことなんだぜ。」
「マスター。」
「なんだい。」
「ありがとう。」
 彼にとっても時間は確実に動き出していたのです。ただ本人が気付かないだけでね。

10 3月 札幌

 大学入試の方法もここのところしばらくは安定していません。今年の北大は分離・分割方式。そこで金沢は必勝を期すため、双方に願書を出したのです。
「前期で決まれば大儲け。ということで。」
 札幌にしばらくいることになります。田畑さんの住む札幌。だけど彼女は会わないつもりでした。自分のことをきちんと話せるようになって、そして、いつまでも一緒にいるために。その日が来るまでは会わないでがまんしようと、金沢は決めていたのです。
 いつか乗った札幌行の寝台列車、今度は往復切符。そして彼女はサングラスをわざわざ買って乗り込んだのです。

 第2外国語の試験を無事通過し、いよいよ教養部に別れを告げた田畑。4月まで授業はありません。外は大雪。正直言って家から出るのはおっくうでしたが、本屋と図書館の魅力の方が勝ってしまいます。
「そういえば明日入試か。」
 北大構内を南北に縦貫するメインストリート。最初は大学北寄りに位置する教養図書館に行くつもりで、地下鉄使うまでもないと思って、自宅から歩いてきた彼。でも北18条門をくぐって気が変わります。
「本館まで行こう。」
 本館は北大構内の南側、正門寄り。歩いて約15分。建物と樹木と空の他には真っ白な世界を歩いていきます。

「こんなことなら北大構内を案内してもらうんだった。」
 試験日前日、下見のため北大構内をさまよい歩く金沢。
「地下鉄乗ったほうが近いんじゃないか。」
 彼女の試験会場は教養部と指定されました。で、正門から歩いていけると速断してしまった金沢は、正門から教養部まで相当距離のあることを全く予想せず、雪の中を文字どおりさまよい歩きます。
「サングラスかけると雪もその色に見えるのね。」
 妙なことに感心しています。

 やがて田畑の眼に一人の女性が入ってきました。
「サングラスなんてかけて、観光客か?」

 金沢は向こうから歩いてきた男性が田畑であるとすぐにわかりました。
「ひゃー、どうしよう。」
 できるだけ自然に、だけど視線は彼を追っている。目にしっかり焼き付けようとしています。

 やがて二人はすれ違います。
 一瞬田畑は何かを感じて振り向きました。だけど、その人が歩いていったので、再び図書館に向かって歩きだしました。
 金沢は、とても緊張しました。声をかけたいという気持ち。今までのこと。いろんな感情がこみあげてきて、でも悟られてはいけないと緊張して……。
 しばらく歩いた後、彼女は立ち止まり、振り返りました。そして雪の中を静かに歩いていく彼の後姿をしばらく見つめていたのです。サングラスに涙がたまりました。

 最新の物理学によれば、何かの事象の発生によって分岐した時間は、別の事象の発生で合流することがあるそうです。新秋のころ分岐した時間は、二人が気付かないまま、同調して動き始めたのでした。
 試験中金沢の涙が流れることはありませんでした。

 数日後、合格発表の掲示の中に自分の名前をみつけた金沢。当然涙は流しません。うれしさで言葉を失ってはいましたが。

11 4月 札幌

「陽子、今度札幌行くよ。着いたら連絡先送るね。」
「試験、通ったんだ。おめでとう。頑張るんだよ。」
「ありがとう。」
 京都のアパートを引き払い、荷物を一旦実家に送り返しました。本当はすぐにでも田畑さんのアパートに送りたかったんだけど、できれば前住んでいた部屋に入れればいいんだけど、田畑さんが転居していたら意味がないもんね。きちんと確かめてからでないと。
 そして今度は飛行機で札幌に向かいました。

 入学式。待ちに待ったこの日。だけど彼女は入学式を楽しみにしていたわけではありません。都ぞ弥生の流れる中、彼女の思いは既に理学部にありました。
「何から話そうかな。突然消えたことを謝って、最初に札幌に来た日のことを話して、受験の話をして……。」
 入学式が終わると、彼女はすぐに彼のいる理学部数物系教室に向かいました。途中通りがかった花屋できれいな花を見つけて。
「これください。花束にしてもらえます。」
「はい、ちょっと待ってね。お客さん北大の新入生?」
「そう見えます?お世辞でもうれしいよ。」
「お世辞じゃないよ、水色のスーツが似合ってますよ。この花どうするのかな。」
「好きな人にあげるんです。」
「とても好きなんだ。」
「うん。」
「いい人なんだね。」
「うん。」
「お待たせこれでいいかな。」
「これでいいです。ありがとうございます。」
「今度彼氏とおいで。」
「はい!」
 そして金沢は数物系の玄関から少し離れた所で田畑の出てくるのを待ちました。
「連絡しなくたって、きっと会える。会えるんだから……。」

「今日は入学式なんだと。」
 うららかな午後2時。ちょっと遅い昼食の前。田畑の友人が話しかけてきます。
「フレッシュマンより勤勉な学部生てか。」
 田畑はちょっと自嘲気味。さらに言葉を続けます。
「今日は気合いの入った新入生が厚生年金会館を占領すると。」
「う〜ん、シニカルですな。でももう終わったころですぜ。構内が気合いであふれてきつつありますが。例えば、ほら、そこ。」
 10階建のビルの理学部数物系、その大きな玄関の先に、水色のスーツに花束を持った女性が人待ち顔で立っていました。
 その女性は田畑の姿を見かけると一目散に走ってきて、田畑の胸に飛び込む。まるでストロボモーション。そして女性はわんわん泣き出す。涙が止まらない。
「ゆうみさん。」
 田畑もそれだけ言うのが精一杯でした。
「私、私ね、話したいことがいっぱいあったの、何から話そうかずっと考えてたの。でも、今は……、これから、ゆっくり、はなすから……。」
 あとは言葉になりません。そして涙が、時の流れを止めてしまったかのように……。

 これから、ほんとうの、ぱすてる・たいむ



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