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再度田岡「国際法」からはじめましょう

国際法やら英米法や大陸法との比較法的な話やら一般法学的な話をすべく
「図書館でお茶会」を再編成しました。
twitter(@SASAKIMasatoTPL)にも(現在はタイムラグがありますが)流れるように仕掛けました。

というので……
やはりここからなのです。
田岡良一「国際法」新版の序 から

Francisco de Vitoria(フランシスコ デ ヴイトリア)がサラマンカ大学の教壇に立ったときから数えても、国際法学は四世紀半の長い伝統をもつ学問である。偉大な多くの先輩の恩沢に浴して、及ばずながらその衣鉢を継ぐわれわれの任務は、これら先輩によって開拓され体系化された国際法の原理を、正しく理解し咀噛して、誤りなくこれを後世に伝えることである。といっても、先人の書を引き写して、ただこれを、旧い文章を新らしい言葉で書き改め、現代の人々に理解し易いようにして出せば任務は済むという訳のものではない。流動する国際社会は、次々に新らしい事実を生み、新らしい国際関係を作り出す。従来の国際法の原理を、これらの新現象に当てれば、反射して出来る映像は、過去にはなかった新らしい国際法規であることもあろう。またこの新らしい現象を説明するためには、従来の国際法学が用いなかった概念を新らたに工夫し鋳造することも必要になるであろう。だから伝統的な国際法学の理論を受け継いでこれを後世に伝えるという簡単そうに見える仕事にも、不断の注意と工夫が要請される。しかしこのようにして外形は変化して行こうとも、私らの学問の精神は、長い伝統をもつ国際法学を誤りなく後世に伝えることにある。その説に新味を与えるために、それが従来の国際法の原理に照らして許され得るものかどうかを考えずに、国際法の新理論なるものを説く立揚を、私らは採らなかった。

この本って私が最初に読んだ法学の本です。
当然最初に読んだ国際法の本でもあります。
高校時代ですから今から30年近く前ですか。いせや書房という函館の老舗の古本屋で買ったものです。

で,この前ふと気づいたのですが,この序文に書かれている姿勢って,今の私のスタンスでもあるんですね。本人あまり意識してこのスタンスに立ったわけではなかったのですが……。

というので,この本は,私のはじめての法学の本であると同時に,私のその後を決定付けた本でもあったのでした。

入国と上陸

実は昨日の話に根底ではつながっている話。

入国審査という言葉に代表されるように「入国」という言葉は普通に使われるし
おそらくは入国と関連させることはないと思うけど「上陸」という言葉自体も普通に使われる。
で,外国人の出入国について規制している出入国管理及び難民認定法では
「入国」と「上陸」とを使い分けているという話。

法律自体にはこんなことは書いていないんだけど
「外国人は常に船でやってくる」ということを想定している法律だということをわかっていると
用語法とかシステムが見えやすいと思う。

日本の場合,現状においては,陸地上で他国と接しているという国境は存在しない。
したがって「外国人は常に船でやってくる」という前提をおくと
それが公海からか他国領海からかは別として
外国人はまず船で日本の領海に入るわけだ。
この日本の領海に入ることを「入国」と出入国管理及び難民認定法では言っている次第。
これに対し,その船が日本の港に着いて,日本の陸地に上がること
これを「入国」と区別して「上陸」と呼んでいる。
だから,出入国管理及び難民認定法の上陸のことを「入国」と呼んでいる人がいれば
こと法律に関する限り誤解のもとなのでやめた方がいいということになる。
では,なぜこのような使い分けをしているかということだけど
その最大の理由は
「長大な領海の境界線上で入国審査を行うことなど不可能だし
 国際法上,「入国をさせなければならない」場合があるのだから
 やったところで効果的な審査にはなり得ない」
という点だったりする。
「入国をさせなければならない」というものの典型例は
沿岸国には一切立ち寄らない無害通航権の行使の場合なわけだ。
(これは昨日書いた話)
実際このことを受けて出入国管理及び難民認定法3条1項は
「(有効な)パスポートを持っていない外国人は入国できない」
「上陸許可を受けないで上陸するつもりの外国人は入国できない。」
という規制をかけているんだけど
逆に言うと,この2つのどちらにも当たらなければ
入国自体を日本国の法令に違反しているとすることはできないのです。
これに対し,上陸については原則(入国審査官の)許可が必要なんだけど
この許可も14条から18条までの特例があることに注意が必要な次第。

「入国」と「上陸」
法律の議論をする時には
「この入国or上陸は出入国管理及び難民認定法でいうところの入国or上陸なんだろうか?」
というチェックが必要だというお話。

(2014年11月9日 17時07分)

家庭のたとえで国家を語る危険

一般論としてたとえ話が成立するためには
たとえる元とたとえる先との共通点があって
その共通点以外の部分についてはたとえ変化しても
共通点についての議論が相変わらず成立するということがなければだめ。
この原則を破ると
一見すると説得力のある議論に聞こえるけど
なんのことはない,論理的なものは何一つなくて
単に共感を呼ぶのに十分だったって話に落ちてしまうことになる。

そのいい例を見つけたので紹介したいわけ。

たとえば……
他人の家やその敷地に入ってはいけないという話がある。
国内法的にはおおむね正しい。
だけど
「これを国家と国家との関係に置き換えましょう」
と言った瞬間に本当は,
眉に唾して聞かないといけないのよ。
まして
「他人の家の敷地に勝手に入ってはいけないように
 他国に勝手に入ってはいけないのです。」
なんて説明はじめたら
これはもう間違いの領域で
単に「勉強不足でした」ってことなのか
それとも間違ったことを吹き込んででも成し遂げたい何かがあるのかと疑うべきなのか
慎重な対応が求められることになるのね。

この種の落とし穴にはまらないためには,
結局は基本に立ち返るしかない。

他人の家・敷地に勝手に入ってはいけないのはなぜか?
当然「常識でしょ」って言い分はある。
でも実は「常識」が本当に常識かどうかは常に問題になり得るよね。
慣習だとか,道徳だって言い分もある。
こっちはいちがいに否定はしないけど
慣習とか道徳に違反した場合の効果というのはよく考えておく必要があるよね。
ここでは法律上の議論に限定する。
そうするとこれは結局「所有権の侵害」にあたるから
民事での損害賠償請求権が認められる根拠となるし
刑事での処罰の対象にもなり得るわけだ。
もう少し細かく見ると
日本における所有権は,○○できる権利,△△できる権利などを全部まとめて所有権と言っているということではなく
対象物に対して何でもできる権利として構成されている。
「他人に使用させない」というのも
「何でもできるから他人に使用させないこともできる」所有権のある側面に着目して導き出せる。
そして他人が勝手に家や敷地に入るということは
その家や敷地の権利を持っている人の所有権を妨害することになるから
法律上やってはいけないこととされる次第。

ところが……だ。
領海というのはここでいう家や敷地とは全く法律的根拠が違うのだ。
元々海はどこの国のものか?という問題提起があって
先行して世界の海を制覇したのだと主張していたあの国とあの国は
当然海はわれわれのものだ(=他人の関与は認めない→閉鎖海論)と主張するわけだ。
一方それでは商売にならないあの国とあの国は
立場上も「海は誰のものでもない(→自由海論)」と主張することとなる。
これは結局「海は誰のものでもない」を主張した国が勢力を伸ばしたことにより
「沿岸部のきわめて狭い海域は「領海」として沿岸国の管轄権を一定範囲で認め
 その外部は「公海」として,どの国も自由に使用できるのだ。」
という体制ができ,20世紀初頭まで続くのだ。

ここで管轄権の認められる範囲が「一定範囲」であることに気づいただろうか?
元々は「自由に使用できるのだ」と主張する国が勢力を伸ばして20世紀初頭までのルールとなったわけで
「領海は沿岸国が自由に使える」という考え方とは明確に対立している。
そしてどこで折り合いをつけたかというと実はいろいろあるけど
その代表的なものは
「沿岸国の港に向かうにせよ,沿岸国には寄らないにせよ,
 領海内を停止しないで進行する限り,領海内での通航が許され
 沿岸国の許可など不要である」
という「無害通航権」なのである。

国内法が適用になる家や敷地の例だと「所有権によって排除できる」
国際法の無害通航権の問題である領海だと「無害通航権が認められるから排除できない」
明らかに違う。

にもかかわらず,たとえ話で説得しようとするのであれば
それは論理ではなく単なる感情論で共感を求めに行っているにすぎないと
眉に唾して聞いておくべきなのでした。

(2014年11月8日 22時41分)

最高裁より偉い国際司法裁判所

まあ年間の審理件数が段違いに違うんで
単純に比較しちゃいけないとは思うのだが……。

調査捕鯨じゃなくて商業捕鯨じゃんって訴えられた裁判
判決とプレスリリースが両方とももう出ている。
仕事早い。

(2014年3月31日 23時28分)

条約に反する国内裁判が行われた場合

三権分立が行われ,司法の独立がうたわれている国の場合
こういうことはいくらでも起き得るわけなんだけど
国際法的な分析は例によってあまり知られていないんじゃないかと思うわけさ。

で,日本の戦後処理については
「日本国との平和条約(いわゆるサンフランシスコ平和条約)」によるものと
2国間条約によるものがあるんで
もう個別に議論した方が正解。

韓国との間だと
「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」
になるんでそれを読むと
(ちなみに三省堂の条約集には載っているし
 外務省の条約データ検索
 http://www3.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/index.php
 でも探せる。)
2条がこんなんなっている。

第2条
1 両締約国は,両締約国及びその国民(法人を含む。)の財産,権利及び利益並ぴに両締約国及びその国民)の間の請求権に関する問題が,1951年9月8日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約第4条(b)に規定されたものを含めて,完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する。
2 この条の規定は,次のもの(この協定の署名の日までにそれぞれの締約国が執った特別の措置の対象となったものを除く。)に影響を及ぼすものではない。
(a) 一方の締約国の国民で1947年8月15日からこの協定の署名の日までの間に他方の締約国に居住したことがあるものの財産,権利及び利益
(b) 一方の締約国及びその国民の財産,権利及び利益であつて1945年8月15日以後における通常の接触の過程において取得され又は他方の締約国の管轄の下にはいったもの
3 2の規定に従うことを条件として,一方の締約国及びその国民の財産,権利及び利益であってこの協定の署名の日に他方の締約国の管轄の下にあるものに対する措置並びに一方の締約国及びその国民の他方の締約国及ぴその国民に対するすべての請求権であって同日以前に生じた事由に基づくものに関しては,いかなる主張もすることができないものとする。

 2条3項が,国内法の裁判にどういう影響を与えるかという問題だわな。

まず,一般論として,条約がそのままで国内法としての効力があるかという問題がある。
日本の場合,条約はそのままで国内法としての効力があると解されている。
ちなみに形式的には,じゃあ国内法秩序の上位法・下位法の関係でどこにあるかって問題が続くんだけど
これは私のよく出すネタのとおりで
「法律に優先するけど憲法には優先しない」というのが憲法の先生のほぼ一致した見解で
これに対して国際法の先生は「国際法が優先する」って先生がたぶんまだ多いけど
必ずしも一枚岩ではない状況。
ただ今回はこの議論はしなくていい。
さらに「裁判所が根拠にできるかどうか」のしばりが入って
(いわゆる自力執行的条約の問題で
 ・権利・義務主体として個人を定めていること
 ・当該国の国内法秩序が国内機関でその条約を直接適用できるものとして受け入れていること
 がないと,抽象的に国内法としての効力があるって言えても
 具体的にどんな効力があるのか読み取るのが困難って話がある。)
「条約にこう書いてあるべさ」
とは単純にはいかないことになっている。
もっとも戦後処理の問題に関して言えば日本の裁判所は
これら条約を理由に請求を棄却しているんで
このような思考をした上で,条約を適用しているとは言えるわけだ。

ところがだ……
このような思考をした上で条約の国内法的効力を否定する国だってある。
イギリスとかカナダはそういう国。
あともう1つは裁判所が法にもとづかない裁判をやっちゃう場合だ。
どちらも請求を認める判決が出る可能性が出てくる。
それでも国内法的には「再審」的なものは別として
まあ確定してしまう可能性もある。

そうすると国家対私人(会社も含む)がその国家の法制度の中で争うのは
法的には無理だってことになるわな。

そうすると,国家対国家の問題として
「外交的保護権」の問題となるわけで
国際法プロパーの問題だよね。

で,詳しい検討は省くけど
条約で「主張できない」としているものについて
国内裁判で真逆の理由で判決出ちゃえば
それ自体,損害と評価できるし
実際に強制執行されたりしたら
それもまた損害であると評価できるというのは鉄板だと思うねい。
……平和条約や戦争処理のための2国間条約の無効は今回はまず無理目でしょ。
そうしたら他の要件も満たしているのはまあ自明と言ってもいいので
外交的保護権を行使して国家が賠償等を求めるって話になって
その交渉がまとまらなければ
3条によって当事国に義務づけられた仲裁裁判が行われることになる次第。

(2013年8月24日 22時35分)

理論的にはきれいじゃないんだけど

お題は司法試験2011年国際関係法(公法系)第1問の設問1

解説しているのがロースクールでも教えている先生なので
私ごときがこんなこと書くのもどうか……と思うんだけど……。

ある特定の国際法規範の国内裁判所における適用の可否を論ずるにあたり
・その国家における国際法の国内における効力(変型か受容か)を論じて
・受容となった場合に自動執行力を持つか否かを検討する
というのは国際法的にきわめて正しいし理論的にもきれいだとは思うのよ。

でもね……。
国際法の国内における効力という1行問題ならこれでいいと思うんだけど
問題文はあくまで
「甲の代理人は,Y国の裁判所に甲の釈放を求めることを考えた。
 そこで,国際法上の主張をするためにはどのような議論をする必要があるかについて説明しなさい。」
なんだよね。
そうするとね……
実務的な感覚からすれば
まずまっさきに検討すべきなのは
「そのような主張を認める直截な規定の有無」であり
それがあればそれによっちゃうのがまずセオリーだと思うのよ。

国際私法のネタに「裁判管轄と準拠法は違う」ってえのがあるやん。
日本の裁判所が裁判をそもそも行えるかという議論と
日本の裁判所が裁判を行える場合に,日本の裁判所がどこの法を適用するかは
そりゃあ話が別だ。
で,法の適用に関する通則法のたとえば7条によれば
法律行為の成立や効力については
法律行為の当時に選択した地の法によるとされるから
たとえばロンドンで成立した法律行為については
日本の裁判所に管轄が認められた場合でも
日本の裁判所が適用すべき法はイングランド法になるでしょ。

この場合に,イングランド法が日本において効力を持つか持たないかを
一般論として議論することに
(学術的に体系化する意味は認めるとしても,それ以外の)
意味がどれだけあるんだろうか?ってならない?
「裁判で何を主張しなければならないか?」
という問いに対しては
まず法の適用に関する通則法の7条の適用があるかどうか論じ
あれば裁判で主張できるんだからそれで議論終了じゃん。

これと同じことが「条約を国内裁判で主張の根拠にする時」にも言えないかい?って話。
まずまっさきに検討すべきなのは
当該条項を国内裁判所において根拠に用いることを許す直截な規定の有無じゃないかと思うのさ。
そしてそれがないとなってはじめて
一般論として国際法の国内における効力……って行くんじゃないか……と。

この話が司法試験の国際関係法(公法系)で出題されていることに鑑み
問題文の「国際法上の主張をするためにはどのような議論をする必要があるか」には
国内法に特別な規定がある場合は当然すぎるから除かれるというのがお約束なのだというならわからないではない。
そうは言ってもそういう国内法の実例がレアケースなんだよというのであれば
へ~と思いつつも,まあ,いっかで通しちゃう。
さらにあたしの言っているとおりなんだけど
試験対策としてはそこまでは不要なんだというのであったら
「参りました!」
なんだ。

だけどな~。

実は解説書いた先生は
問題文のなお書き
「なお,従来Y国国内裁判所において自由権規約が援用されたことはない。」
の意味・位置づけを「迷うだろう」としつつ
日本のような受容方式をとりつつ国際法の適用に不慣れで
国内法の適用だけで同じ結論を出すことを想定して処理したんだけど
あたしに言わせればこれは端的に
「先例があれば先例こそが適用・不適用の根拠になってしまい
 問題が成立しなくなってしまう」
ことを防ぐための
なくてもはなから全部書けば問題がないけど
問題文をよく読んで意味を理解した結果,問題が成立しない可能性まで読めてしまう受験生に
「それは違うからね」とつぶしておく
典型的ななお書きだったんじゃないかと思っているわけさ。
じゃあここでいう「はなから全部」とは何かと言えば
1行問題と答が変わらないような答を求めているのではなく
(新)司法試験らしく,裁判の場を想定した思考による答を求めているんじゃないか。
そうすると……私の方があっているような気がしてならないのだ。

……まあ,あたしが問題解説の先生つかまえて「違うんじゃないの」って思ってしまう時点で
  勉強足りないんじゃないかって言われると
  一般論として「全くそのとおりでございます」なわけなんだけどね。

(2013年7月24日 0時07分)

領事と名誉領事との違い

国際法からはじめよう」でも述べたとおり
「国と国との関係が外交関係。外交関係を処理するのが大使その他の外交使節団」
「外国において自国民の保護を扱うのが領事関係。領事関係を処理するのが領事その他の領事機関(の構成員)」
なわけだけど
じゃあ名誉領事って何かっていえば
これは自国民以外(たいていは相手国の国民)から選ばれた領事で
しかも多くの場合に他の仕事……むしろ本業をお持ちなわけだ。

ブータンが中国に侵略された……という誤報級の情報に対して
ロケットニュースが比較的冷静なまとめ方をしているんだけど
http://rocketnews24.com/2013/07/04/347084/
「また、侵攻が事実であれば1週間前の報道を領事館スタッフが把握していないというのはどういうことなのだろうか?」
というのはさすがに踏み込みが甘い。
聞いたのが「名誉総領事館」だって言うんだもの。
おそらくは本業を他にお持ちの方だ。
日本の中ではブータン政府の公式情報をお持ちだとは思うけど
少なくとも漠然と「外交官」的に考えちゃいけないのさ。
「本国政府から特段の情報は入っていないらしい。」
と素直に表現するのが正解。

(2013年7月8日 2時24分)

事後法による処罰の禁止は絶対ではない

林信吾「反戦軍事学」朝日新書
帯に
「軍事について正しい知識を持てば,戦争賛美などできなくなる,と思うから」
という本文中の一節があげられているんだけど
その点での軍事的知識の点で勉強になるのはもちろんのこと
いわゆる間違った右っぽい人,間違った愛国心の人を
論理的に明晰に批判しているあたりは
とても読んでいて気持ちがいいんで
ぜひ1冊お買い求めを。

でだ……。
まあ専門外だからしょうがないとは思うものの
その明晰さゆえに残念だったのが
極東国際軍事裁判(いわゆる東京裁判)のくだり。
p190あたり。
「法理論的に言えば,こんな無茶苦茶な裁判はない。……
 いかなる犯罪でも,犯罪が起きた後になってから作った法律(事後法という)で裁くことはできないのは,法理論のイロハである。」
日本では英米法の論理が本当に知られてないなあと思う一瞬。

そう,「common law上の犯罪」をどう説明するの?って
私がよく出すあの話さ。

根底には
「罪刑法定主義」と言った場合の法は成文法を指すのはいいとして
事後法の禁止の「法」を成文法に限定解釈するんですか?
という問題を考えなくてもいい
大陸法系における人権保障の歴史をもう当然の前提にしちゃって深くは考えていないって事情が存在するのさ。

イングランド法では犯罪は必ずしも成文法で決まっているとは限らないし
ゆえに罪刑法定主義における法を大陸法におけるのと同じに「成文法」と解して
イングランドには罪刑法定主義はない(けどそれは恣意的な処罰を許すものではないから全然困らない)と説明する学者と
罪刑法定主義はあると説明する学者がいる。
後者の立場はおそらく「法」を「成文法」には限定していない。
イングランド法の特質から言って「法」を「成文法」に限定するのがむしろ不自然だからだ。
そうすれば結論から書けば
(途中の過程はきっと次回作lnpp2に入っているはずだから買って読んでね(はあと))
「「良き古き法」は既に存在しており
 それを裁判所が発見して適用したにすぎない」
というイングランドのcommon law裁判所の大前提の下に
「良き古き法」によって罪刑が法定されていると説明するがゆえに「罪刑法定主義」はあることになる。

ちなみにこの点,個人的には実は「罪刑法定主義はない」説の方が理論的にきれいだと思っている。
でも今日は本筋ではないので省略。

で,この後説に立った際
極東国際軍事裁判も事後法による処罰では全くない
なぜなら「裁判所が発見した(正確に言えば先行するいわゆるニュルンベルク裁判でも示されている)法」は
行為以前に存在しており
その法による処罰だからだ……って話になるのさ。

当然全体として観察した際に「良き古き法」には存在していないという反論や
裁判の形をとった政治的決定にすぎないという指摘に
あれこれ言うものではないんだけどね……。

法律のことをよくわかってない割には
大陸法の発想にどっぷりつかっているよなあ……と思わせる事例だったので
取り上げた次第。

(2013年2月26日 0時06分)

それは「法の支配」じゃないと思う

田村智明「法解釈の正解」勁草書房の話。
先週弘前ジュンク行った際に
ほぼ衝動買いで買ったと言っていい。
基本的な話としては
「自己の価値判断から離れた純粋に客観的な解釈というのはあり得ない」
としつつも
それは「何をどうこじつけても解釈になる」ことを肯定するものではなく
普遍性をもつことが必要で
この意味において「法解釈の正解」は存在している。
確かに,一時期の旧司法試験が
論理の欠如したいわゆる論点カードの単なる組み合わせで合格してしまうことへの危機感から
現在のロースクールの指導が
「正解を求めるな」と強調するのは理解できる話なのだが
さすがに「正解志向はダメ」というのは行き過ぎだろうというもの。

この線については全く異論がない。
実際私も「なんでその話からこの話に行くの?」って答案を恒常的に書く人を見ているんで
(で,実際,それは間違いっていうと反発されたし。
 著者と同じ経験はしているのよ。)
基本的な問題意識には同意するし方向性も賛成なのよ。

細かい話をすると私はよく
「よりよい解釈の基準」の話はする。
この基準が実は2系統(体系性と問題解決の妥当性)あって
両方を満たすものがあれば話が早いけど
一長一短がある場合,その優劣を決めることは難しいって言い方をしているところ
たぶん著者はこれにも反対しそうな気がする。

ゆえに
「自分では答案が書けているつもりなのに
 客観的には点数にならない」
答案をよく書く人にはぜひ勧めたいとは思うのよ。

だけど……だ!

どうしても我慢できない点が1つある。
それはこの著者の「法の支配」の理解なんだ。
文章中たくさん「法の支配」という言葉を使っているんだけど
そのほとんどは「法の支配」
「ではなく」←ここ重要
「(三権分立を前提にした)実質的法治主義」と書かないといけないのさ。
じゃあなんでこんなことになっちゃうかというと
「法の支配の原理は,「実質的法治主義」とも呼ばれますが」(p29)
……あうあうあう。
著者にとっては法の支配=実質的法治主義になっちゃっている。
≒ではなくて!
たいていの教科書は「ほとんど差はない」って書くけど
「同じ」とは書いてないと思うにゃあ……。

ちなみにwikipediaは=であるとした上
それが憲法学界での通説であるかのように書いている。
あたしは例によってwikipediaの間違いだと思ってはいるけど
仮に憲法学界の通説的見解が=だとすれば
「日本の憲法学者は英米法由来の概念をよく間違えて導入する
 (例「states action」)」
の類だと思う。

それゆえ著者にとっては
法の支配と民主主義は親和的になるし
(偽装された)一般的規範意識が日本国憲法が前提とする法の支配の原理を支えていることになるし
法の支配における法=正義になっちゃう。

著者はドイツ観念論につながる人で
しかも大陸法系を前提に書いているから
もう仕方のないことかもしれないんだけどさあ……。

イングランドで法の支配と国会主権との関係が常に問われ続けたこととか
(裁判所が適用しなければ国会制定法も法ではないとか
 Equityも国会制定法もcommon lawの補遺だというのは
 大陸法系の発想じゃ絶対理解できないもんな~。)
EU法のイングランド国内における扱いが概念的には問題になっていることとか
そもそも「イングランド法」には「法の解釈」という概念はないことになるのかとか……。

大陸法系にしか適用できない議論なのであれば
上で上げた「点数にならない人には……」以外は
ちょっと参考にならないな……というのが正直なところ。

あたし自分がlnpp2の「法の解釈」で書いていることが
「先達がいない」ことだとは思ってないんだけどなあ。
……探し方が悪いのかなかなか見つからない……。
  ……あたしごときが国際法学における前人未到の領域を開拓しているなんて
    あり得る訳がない!
   (実際,多元論だっていた訳でしょ?)

(2013年1月26日 19時08分)

男女同一報酬

有斐閣双書のワークブック国際法の第49問は
「男女労働者に対する同一報酬」を定めたILO100号条約に関する問題で
A 男女完全同一報酬 生理休暇なし=生理で休んでも欠勤扱い
B 生理休暇あり=欠勤扱いではないが,給与はその分カット
C 生理休暇あり+生理休暇は有給
D 生理休暇=産休→就労禁止+有給
の4パターンについて
ILO100号条約違反のものを指摘する(正解はB)のと
同条約に最も適合しているものを指摘する(正解はA)ということなのだが……。

解説で
「有給生理休暇の規定はILOの条約および勧告の中には見当たらず」
とあるところ
女子差別撤廃条約11条1項fで確保される
「作業条件に係る健康の保護及び安全(生殖機能の保護を含む)についての権利」
とか
2項bの給料……を伴い,雇用関係の喪失……を伴わない母性休暇に
に「有給生理休暇制度」や「就業禁止」が入ってもよさそうなもんなんだけど
ざっと調べた限りストレートに書いているのを見つけられないでいるのよ。
解説でも「働く婦人のみを対象とする保護の再検討」と書いているし
ある文献では女性差別撤廃条約の方向性として
「母性保護のための措置以外の女性に対する保護は究極的には解消するべき」
ともしているんだけど
じゃあ母性保護のための措置とそうでないものの判断基準はどこさ……と。

う~む。

(2012年10月31日 23時38分)

やっぱり力入るよね

lnpp2における「多元論」の説明。
……いや~,力入る,力入る。

(2012年10月4日 0時38分)

OKwaveやるな~。

「事前に裁判付託合意が締結されずに、紛争当事国の一国が紛争の一方的請求を行った場合でも、裁判所は、相手国が出廷に同意した(コルフ海峡事件)か、事実上参加しその判決に反対はしない限り(上部シレジアの少数者学校事件)、有効に管轄が設定されたものと看做す。確定的な効果をもつ黙示的受諾の制度であり、国際判例によって確立したものである。裁判所規則も、請求当事国が管轄権の根拠とされるべき法的理由を「できる限り」明示すべきものとし(規則38条2項))、この制度を容認している(国際法/山本草二/694-695頁)」
こういうことを言っちゃう人が
「なお、国際法は、民法すら勉強してない、法学部出身ですらない輩が、知ったかぶって、国際法専門家を自称することの多い法律科目である。条文や文献すら摘示しないで独自論を語ってデタラメを質問者に申し向ける人間が少なくないから、質問者におかれては特に警戒が必要である。」
なんて言っている。

……あ,そうか!自分自身のことを「信用するな!」ってことか!
  ……それ高等すぎて,わかんね~よ~!
    ……そしてこれがベストアンサーって,知らない人見たら本気にしちゃうよ……。

なもんで,一般の人にはあまり知られていない話なんで,正解を書くとさ~。
実はこれ,間違い。見事に真逆に行っている。
(……ああ,あたしって野暮だわ……。)

まずコルフ海峡事件判決っていわゆる応訴管轄を認めた判例なんだけど
この時の被告アルバニアって
「そんなことしたら応訴管轄とられちゃうやん」
ってはらはらするような行動して
実際応訴管轄とられちゃったという。
具体的に言うと管轄権がないとかさんざん言っておきながら
その同じ書面で
「裁判所に出廷する用意がある」
って断言しちゃったんだもん。
で,判決で
「アルバニアによる裁判所の管轄の任意によるかつ争う余地のない受諾を意味する」
って判断されてしまった。

上部シレジアも
「管轄をそれぞれ別々にでも受諾すれば合意でなくてもいい」って言っているだけで
受諾していなくても裁判できるなんて判例じゃない。

で,ここから先がポイントなんだけど
実は1950年代の冷戦時
アメリカはソビエトにがっつんがっつん一方的な提訴をしているんだよね。
そして訴状を受け取ったソビエトはことごとく
「裁判所が審理できるとする理由がない」
という内容の書簡を裁判所書記局に送って
で,実際管轄権がないからという理由で
「付託事件リストから削除する命令」(……日本の裁判的に言えば却下決定だな)
が出て一件落着となっているんだ。
(今ざっと数えたら5件)

そしてこの5件以外でも
国際司法裁判所はさんざん繰り返している指摘があって
それは
「同意を与えた国に対してのみ管轄権を行使できる」
というルールの存在。
例えば1943年にローマから持ち出された貨幣用金に関する事件判決では
「充分確立された国際法の原則」
とまで言いきっている話。
その同意が
「形式・様式は問わない→コルフ海峡事件」
「国ごとに別々でもいい→上部シレジア」
ってだけなのだわ。

……充分確立された国際法の原則を勝手に変えるなよなあ。(笑)

(2012年8月30日 21時34分)

分離独立を求めているわけでもないのに国家承認されちゃう

ワークブックのネタなんだけど
元の話は政権争いから内戦状態になって
新政府側から政府承認を求められたのに対し国家承認をしてしまうことの是非。
国家承認も政府承認も一方的行為なんで
されてしまう側に拒否権がないというのはまったくもってそのとおりなんだけど……。

第1に仮に国家としての要件を満たしていない場合には
従前の国家との関係で尚早の承認ということで
国際法違反を構成するというのはかたいとは思うんだ。
かたすぎて限られた紙面だから書かなかったというのは理解できる。
で,尚早の承認がなぜ国際法違反になるかと言えば
それは内政不干渉原則違反だとするわけだね。

でもね……。
この筋から言うと
「従前の国家と同一性をもっています。我々が正統な代表です。」
という政権に対し
新国家として承認してしまうのもまた
内政不干渉原則に違反してねーか?
……となると「政府承認も国家承認も一方的行為だから拒否権なし」って単純な話ではないと思うのだが……。

余談
なんてみたらこの項も松田先生。

(2012年8月28日 23時30分)

国家承認の義務

ずいぶん昔の本になるけど
有斐閣選書の「ワークブック国際法」
第10問の「国家承認の方式と効果」の項の解説は松田幹夫先生の手によるんだけど……。
「多数国間条約の締結も,黙示的承認を意味しない。」
うんうん。
「その場合,特定の当事国について,承認の留保を表明することが可能である。」
まあ,これも間違いない。
「「これは承認を意味しない」との意思をA国は表明しなかったから,この時点でA国は……黙示的に承認したものとみられる」
え?

もしかしたら松田先生は
「一般論としては多数国間条約の手行ける自体は黙示的承認を意味しない」ものの
「あえて承認の留保を表明した国が出た場合or後は
 承認の留保を明示的に表明しない限り黙示的な承認を意味する」
ってことを言いたいのかもしれないけど……。

それにしたって
「明示的な承認の留保を行うとその効果として他の国に黙示的承認が推定される」
というのは
「明示的な承認の留保」という一方的行為に第三国への拘束力を認めるもので
一般論としてやばいんじゃないだろうか……。

もしかしたらこの本の出版の当時は
「承認義務を認める方向での創設的効果説」が日本の学界の通説だったので
その線に立つとできるだけ承認させる方向に解するという筋の話かもしれないけど……。

う~む。
……やはしあたし「国際法からはじめよう」で書いたとおり
  法的問題ではないって線で押すのがいよいよ妥当じゃないかって気がしてきた。

(2012年8月20日 23時30分)

High Court

お茶会っぽく
法律に見えて実は法律ではない話をしちゃう。

Judge John DeedってBBC製作のTVドラマがあって
それを紹介している日本のサイトもあるんだけど
主人公John Deedが最高裁判事だって書いていたところがあって
そりゃああ~た,ドラマよく見ていないでしょ……って思わず突っ込み入れちゃった。
……だってCourt of Appeal判事への昇進をちらつかせるって取引の場面が何回もあるのに
  最高裁判事がさらにどこに昇進するんだと……。
 (このドラマの見所の1つやん。そういう昇進をちらつかせて取引もちかけたり
  実際に昇進させてその裏でって回もあるんだし。)

で,原語の「High Court of Justice」なのだが
一応業界では「高等法院」と訳すのでほぼ確定だし
実際ドラマについている字幕でも「高等法院」になっているわけだけど,
こと,法律的な正確性が必ずしも要求されるわけではないこの種のドラマ(の字幕)で
高等法院って訳で本当にいいの?って思った。

確かにそもそも日本の制度とは全然違うんだから原語に近い方がいいという価値観はありだと思うし
あえて日本とは違う言葉をつけて注意喚起すべきというのも一理ある。

でも,もともと法律的な正確性はいらないじゃんってところからはじまっているはずなんで
役割として一番近い「地方裁判所」ってやるのが一番いいんじゃないかえ?って思うのさ。
……日本だってTVドラマの法廷シーンなんて間違い探しはじめたら大変なことになっちゃう。
  でもそれを言うのは野暮なわけでしょ。
  Judge John Deedだってたぶん同じだぜ。あのとおりに法廷が行われるわけじゃあたぶんない。

(2012年7月8日 0時56分)

アヤ・デ・ラ・トーレ事件のその後

アヤ・デ・ラ・トーレはコロンビアを出国して第三国に向かったんだよね?
確か?

(2011年11月29日 23時55分)

執行に興味ないのかえ?

国際書院の「国際司法裁判所 判決と意見」シリーズは
大変よくできた本なんだけど
分担執筆の宿命として
筆者によって情報の有無が変わっていたりする。
今調べている「判決の履行状況」もその1つで……惜しい!

(2011年11月29日 23時54分)

jusとjustice

justice(英語)の語源をたどっていくと
jus(ラテン語)に行き着くんだろうか?

(2011年10月14日 0時47分)

法は事実か?

バイト先での話
「日本の民事訴訟において条例って主張立証の対象になるんですか?」
……ふぉっ,ふぉっ,ふぉっ。なかなかよい質問である!
私の専攻と言ってもいいくらい大得意の話。
……って顔したら,「しまった!寝た子起こした!」って表情を質問者はしていたけどね。

結論から書けば
「裁判所は法を知る(jura novit curia)の原則」から
 知っているものを主張立証する必要はないということになる。
 弁論主義の適用はない。」
ということになる。
ちなみにこれを「当事者による証明を要しない事実」として説明している本もあるけど
ぎりぎり言うと論理的な明晰さに欠けると思う。
そもそも法が事実かどうか(特に外国法について)争いがあって
「法は事実ではない」とする立場からは
「そもそも事実じゃないんだから証明を要しない事実というくくりは変」ってことになるし
おそらくそういうことを言いたくてそういう説明をしているんじゃないんだろうから
触れない方がかえって明晰。

とはいえ実務では
外国法や条例(その自治体内でのみ有効)
もしくは特殊な法律(業界内にしか知られていないのが通例)については
当事者が書いてくるのがほとんど。
そしておそらく反対側に意見聞く。

でもこれを誤解しちゃいけないのが
別に弁論主義によって当事者の主張立証がなければ
裁判の資料にできないとか
認否をとって場合によっては証拠調べしなきゃいけないとか
……という理由からではないってことな点。

概念的には「裁判所は法を知る」と言ったところで
全ての裁判官が全ての法を現に知っているかといえばそれはさすがに無理。
そうすると,「裁判所は法を知る」ってところにあくらをかいて何も手を打たないと
その法の存在を知らないまま裁判されちゃうことがある。
これが事実審なら上訴理由にはなるから控訴すればいいかもしれないけど
そんな危険は犯さないのが冴えたやり方だよね……ってレベルの話なわけさ。

でも……前にも書いたけど
「法は事実だ」とした方が楽な場合ってあるよね~。

まあこんな話なわけだが……。

「条例」で質問してきたのに「国際私法」とかの本で答えるあたりが……(笑)
……いや,民事訴訟法関係では渉外事件でもない限りあまり深刻な問題にならないので
  あまり突っ込んで議論する実益がないもんだから
  詳細に記述している本がなかなかないのよ。

(2011年10月12日 23時22分)

それ,アウトじゃん

某所にて。
「東京電力は法的整理をしないとだめだ」
ふむふむ,で,その理由は?
「放射性物質の流出を理由に外国から損害賠償請求される危険がある。
 今の賠償スキームでは結局それらも国が支払わなければならない。」
あれ?そうだっけ?

で,仮にそうだとして,法的整理をすれば,その不都合が避けられるという理由がわからない。

たぶん,法的整理……この場合はたぶん破産だと思うけど
まあ会社更生でもいい。
債権の大幅なor全額カットという意味を
「(民法上の債務と責任とで説明した時の「強制執行されない」という意味での)責任の消滅」
ということで考えているんだろうけど
そこまでは正解だ。

ところがだ……。
国際法のレベルではそうはいかない。
国家自身が日本国に対して損害賠償請求をするとした場合
その要件を満たしてしまえば結局日本国自身が賠償しなければならないわけで
その要件を満たしていない……って断言できるの?って思う。
一つにはhttp://www.lufimia.net/dynamic2/tpl00/87に書いた話で,今の段階でこれを完全に否定できるというなら,
そもそも東京電力に対する賠償請求自体否定できるんじゃないかな?
もう一つは外交的保護権による請求で,
前提としてはその国家内の誰かが損害賠償できることが要件にはなるんだけど
「法的整理を理由に国内的救済受けられない」ってことになれば
やはり日本国自身の問題になってしまう。

で,重要なのは,この2点は「法的整理をしてもしなくても」答が変わらない
言い換えれば「法的整理をすれば日本国は助かる」という話ではない点なのさ。

(2011年9月27日 0時40分)

多元論に行かない理由?

薬師院仁志「社会主義の誤解を解く」光文社新書はなかなかおもしろい本だったんだけど
読んでて「もしや」と感じたことがあるのさ。

国際法の分野では多元論ははっきり言って人気がない。
最初は「これを言っているのはあたしだけ?」
って思ったくらいに少ない。
(実際は,きちんと同じ主張が先行して存在していたわけだが。)

で,その原因を私はドイツ流の観念法学の影響じゃないかなあ……って想像していたんだけど,
どうもそうとは限らないんじゃないか。

上記の本のp78によると
革命を経たフランスは「個人として国家にのみ所属する」という思想
(そのルーツはルソーの社会契約論の中の
 「国家のうちに部分的社会が存在せず
  各々の市民が自分自身の違憲だけをいうことが重要」
 という記述にさかのぼる。)
があって,その結果
「国民を分断すると見なされた私的団体は,原則として全て禁止され」
市民団体の結成が認められたのは1901年だという。

……部分社会自体を否定するんだから一元論か二元論だよなあ。

(2011年9月24日 1時12分)

法が支配するもの

長谷部恭男「法とは何か」についてもう1点
「法の支配」の話(p148以下)
法の支配の要件として
大きく「法が人々の従うことの可能な法でなければならない」
その具体化として
「法が公開されていること」
「法の内容が明確であること」
「ある程度の安定性」
「無矛盾・無衝突」
「事後法禁止」
「実行可能性」
なんかあげているんだけど……。

それこそ長谷部先生が批判するところの「濃厚な意味合い」ではないだろうか?
そして「法の支配」を独立に議論する意味をもたすために「希薄な意味」での「法の支配」を論ずるなら
真っ先にそぎ落とすべきなのは
「法に人々が従わなければならない」というテーゼではないだろうか?と思うのさ。
実際,このテーゼを落とし
言い換えれば「法の支配」という時に「法」が「支配」するのは権力だ,
まさに憲法が他の法と異なり「権力」を対象にする法であるのと同じ構造で,
とした方が
すっきりとした議論になると思うのです。
……lnpp2で若干補足しておこう。

(2011年9月11日 23時55分)

長谷部先生が憲法の先生であることを証明する(笑)

あたしの持ちネタの一つに
「国際法の先生と憲法の先生の見分け方」
というのがある。

大要次のとおり
「「国際法と憲法はどちらが上位にきますか?」
 って聞いてごらん。
 「憲法」って言ったら憲法の先生
 「国際法」って言ったら国際法の先生だから。」

もっともまじめな話をすると
憲法学界側はおおむね「憲法上位」でかたまっているけど
国際法学界側は「国際法優位の一元論」「二元論」「等位理論」「多元論(あたし(笑))」ってとこなんで
「「憲法」って言ったら憲法の先生
 そう言わなかったら国際法の先生」
の方が正確なんだけど……まあそれではネタにはならないわけで……。

さて……
長谷部恭男「法とは何か」河出書房新社p117
>憲法より上位の規範はさしあたり存在しません
>(国際法がより上位にあるという考え方もあり得ますが,
> あまり多くの人々の賛同を得ていません。
> 国際法は本当に「法」なのかという疑問もあるくらいですから。)
……間違いなく憲法の先生だね。(笑)

ちなみにこの本1200円+税なのは
「河出ブックス」という一連のシリーズの性格上,
「一般向けにやさしく,安く」という要請からだと思うけど
いいことだと思うのだが……。

上の記述はちょいといただけないと思うにゃあ。
……「法学者は自分の専門分野は日進月歩だが,他の分野は学生時代に習ったままだと思っている」
  って揶揄されちゃうよ……。
  ……「憲法は法か?」と言われちゃう憲法の先生が言う話でもないし。

なんのことはない
「「国内においては」憲法より上位の規範はさしあたり存在しません。」
って記述でいいところなんだもん。

(2011年9月11日 23時37分)

かくてい

変換すると
「画定」が第1候補であがってくる。

……国際司法裁判所の判例の検討のしすぎだな(笑)

(2011年9月4日 23時37分)

事件名の標準化は難しいかも

日本では裁判を特定するのに事件名を付けてそれで特定することが多いんだけど
(英米法では原告・被告名で特定することが多い。)
原文にあるとは限らないものだから
当然のように複数ついちゃうこともあるわけで……。
しかも国際書院の判例本だと
共著ということもあって
本の中ですら統一がはかられてないってことまである。

これをどう扱うかは思案のしどころでしょうな~。
地名等固有名詞の標準化と並んで……。
(固有名詞は内閣告示「外来語の表記」の線で行こうかとは思っているけど。)

(2011年9月4日 23時36分)

ニカラグア事件判決を読んでみて

素朴な感想

……欠席による擬制自白と弁論主義って
  裁判する側からすればすごく便利

(2011年8月16日 0時11分)

外交的保護濫用防止のためにはやむを得ないのではないか

ノッテボーム事件本案 1955年4月6日判決 I.C.J.Reports 1955, pp.4-65
なんでも批判が多いそうで,
波多野・松田「国際司法裁判所 判決と意見」国際書院においてこの判決を担当した波多野先生も
批判の線で書いているんだけど……。

正直あれ?っと思ったことがある。

まず外交的保護権自体,権利侵害を受けた個人を救済するためのものではなく,
またその個人の権利を国家が代理・代行して行使するものではない,
外交的保護権は国家固有の権利であるということは
(有力な例外を除き)
ほぼ国際法の業界では一致しているところだと思うね。

ところがノッテボーム事件についての批判の1つとしてあげられるのは
「二重国籍の場合に関連の薄い方の国は外交的保護権を行使しない」慣行の存在をもって
「単一国籍の場合に関連が薄いからという理由で外交的保護権の行使を認めない」となると
その者の利益を保護する国がなくなって不都合だという点なんだけど……。

あれ?って思わない?

一方で「外交的保護権は濫用されがち」という危機感も
割と業界では一致した認識だよね。

あれ?って思わない?

個人の権利を国家が代理・代行して行使するものではないということを前提におけば
個人救済のための制度ではない……というのが論理的な帰結になるはずで
にもかかわらず「助けてくれる国家がない」ことを不都合とするのは
おかしくないかい?って思うのよ。

そうすると
外交的保護権の性格について
個人の権利の保護に重点を置きその線で再構成をはかるって主張の人ならともかく
そうでないかぎり=現行の解釈を前提にする限り
あくまで国家の権利として性格づけられなければならず
「個人の利益を護る国家がなくなる」という批判は
「それで何が困るの?」という再批判に耐えられないと思う次第。
そして外交的保護権の濫用を防ぐために
「国民」という要件について,ハードルをあげようというのは
あり得る発想だと思うのですよ。

(2011年8月6日 1時01分)

判断の必要あるのかえ?

波多野・松田「国際司法裁判所 判決と意見」国際書院
コルフ海峡事件の管轄権判決についての評釈で横田洋三先生が
「本件における管轄権の判断は,この争点に対する答えを出さなくても明確にできるという意味では,裁判所としては不必要な争点に判断を下す必要はないとする禁欲的態度をとることは当然である。」
としつつ
「両者が真っ向から対立する議論を展開している争点であるし,……裁判所としてのなんらかの判断を示すことがあってもよかったとも思われる」
とあるんだけど……。

これって日本の民事訴訟法にどっぷり漬かっている私としては
「え?」
って思わざるを得ないのさ。
というのは,紛争の解決に必要のない判断を示すことは
具体的事件から離れて法的な判断を行っているわけで
「勧告的意見」以上に「それ司法権なの?」って疑問が巻き起こることになると思うんだけど……。
……井上薫元裁判官なら真っ先に怒りそう……。

(2011年8月3日 23時40分)

伊藤正己「法の支配」有斐閣を読む

わざわざ北海道立図書館に相互貸借でお願いして。

一番安心したのは
法の支配についてlnpp2で書いたことが
それほど外れてはいなかったこと。
……安心してお出しできます。(笑)

中間部は法律の話なんだけど
政治にすごく参考になる話だし
裁判所侮辱についての記述も詳しかったし
lnpp2以外にも参考になりました。

ちなみにこの本
現在の栗田出版販売が昭和27年に設立した栗田ブックセンターが
昭和38年に北海道立図書館に大量の蔵書を寄付しているんだけど
その中の1冊らしく
その旨の蔵書印が押してありましたよ。

(2011年7月29日 0時09分)

陸地・島・海洋境界紛争に関する1992年9月11日判決の再審請求事件

当事者はエルサルバドルvsホンジュラスで
2003年12月18日ICJ判決
I.C.J. Reports 2003, pp.392-426
の判決なんだけど……。

判示事項として
「事実と証拠の峻別→事実には議論,主張,弁明を支えるための証拠となる資料を含まない」
「ICJ規程61条に定められた再審開始要件について,申立国が主張しない事実を基礎として裁判所が再審請求を受理できると判断することはできない」
が含まれるって読み取ったんだけど
これでいいよね?
……国際書院の「国際司法裁判所 判決と意見」のこの判決の解説のところに
  明確な記述がなかったんだけど……。

(2011年7月22日 1時27分)

独創ではないことに安心する

私の著作を読んだり話を聞いたりしている方は既に御存知のとおり
国際法と国内法の関係についていわゆる多元論をとっていて
「内部社会の原理を外部社会に対抗できない」という原理でたいてい説明できるのではないか
というスタンスなんだけど……。
そのこと自体,私の独創ではなく,先行して主張していた学者がいたってことで
結構安心したのは事実。

で,今日国際私法の本を読んでいたら
全く関係のないところで同じような指摘をしているのがあったのさ。
それは……国際私法の中で一時期オランダ学派に属する人が主張していた
1 一国の法律はその領域内においてのみ効力を有し,かつすべての臣民を拘束するが,領域外には及ばない
2 一国の臣民とは,永久的たると一時的たるとを問わず,その領域内にあるすべての者をいう。
3 各国の君主は,礼譲にもとづき,一国において適用された法が,他の君主または臣民の権利権益を害しない限り,あらゆる場所で効力を保有することを承認する
この構造って多元論そのものじゃないのん?

(2011年6月28日 0時02分)

議論の実益

今,lnpp2は国籍の項目を書いていて
もう原稿用紙20枚くらいになっているんだけど
法の支配とは違って
まだ国際法の本って感じはしますわな。

で,その関連で,木棚照一「逐条註解国籍法」日本加除出版(2003)を読んでいるんだけど……。

ちょっと疑問に思った点を2つほど。

その1
国籍の性質について「法律関係」「法的地位」「折衷説」という議論をすることで
国際法的にどんな違いが出てくるんだろうか……と。
国籍法の議論としては,国籍の性質を論じることは非常に重要なんだけど
そこ以外に議論の実益があるのかえ?って感じがしてならないのさ。

その2
国籍を法律関係と見る説の説明として封建制度を前提にした領主と領民の関係からはじめているんだけど(p4)
この本の別のところで論じているとおり領主と領民の関係というなら
封建制度を前提にする限り領主は領土と領民をあたかも私有財産であるかのように扱えたわけで
領民の側には領主の下を離れる法的な権利は存在していなかった以上
これはむしろ「法的地位」としか説明のしようがないんじゃないか,
法律関係と評価できるのはむしろ「国王と領主」「領主と騎士」の関係ではないか。
こちらは相互に関係を結び止めることができたので
こちらこそ法律関係なのではないか。

まあlnpp2に反映させる必要のない話ではあるんだけど……ね。

ちなみにこの本は国籍法学界の通説である
「一般的国籍と機能的国籍」の概念を利用して
ノッテボーム事件を解析しているんだけど
私は例によって
多元説に基づく調整原理の1つである
「内部事項は外部に対抗できない」
で処理できる話だと思っているので
そのようにlnpp2でも書いています。

(2011年6月24日 22時35分)

それって国際法事典なの?

「法の支配」をテーマに書いた特大項目(仮称)の中から
小項目を抽出して語釈をつけたんだけど
そのライナップがつぎのとおり
違憲審査権
英米法
エクイティ
慣習
慣習国際法
慣習法
強行法規
行政権
契約
憲法
国際慣習法
コモン・ロー
裁判
裁判所侮辱
司法権
条約
大陸法
デュー・プロセス・オブ・ロー
任意法規
判例法
法源
法治主義
法的確信
法の支配
法の下の平等
法律による行政の原則
立法権
……どこが国際法事典(笑)

ちなみにおおむね原稿用紙7枚

余談
上のリストってあいうえお順にsortして作ったんだけど
コンピューターってこういう作業が楽ちんだよね~。

(2011年6月13日 23時01分)

lnpp2進行状況

法の支配についてひととおり書いたんだけど
400字詰原稿用紙で61枚
「国際法からはじめよう」のレイアウト換算で25ページになっている。
……法の支配についてこんなにくどく書いた国際法の事典ってあっただろうか?(笑)

法の支配という概念を通じて法とは何かを考えることって
国際法でも有益だと思うよ~。

(2011年5月1日 2時32分)

条約検討してそれで終わりというわけにはいかないでしょう

ちょっとどの新聞記事だったか忘れたんだけど
海洋汚染関係について公海については条約があるけど
その条約は領海内の事象を想定していない……という分析で終わっていたところ。

トレイル溶鉱所事件における1941年3月11日アメリカ・カナダ仲裁裁判所判決の検討は必須じゃないのか?
この場合。
「他国領域やその財産・国民を害するような方法で自国領域を使用する権利はない。」
という一般化がこの判決から導けると思うんだが……。

(2011年4月15日 23時36分)

lnpp2進行状況

国際法の事典なのに
「法の支配」だけでp20くらい
(400字詰原稿用紙で50枚くらい)になってしまって
しかもまだ終わりません。(笑)

(2011年3月3日 0時43分)

国際裁判の動態読み終わった

なんというか,自然に批判的に読んでしまう本だった。
知的興奮は得られたけどね~。
てえか,自分なりに「こういう仕掛けなんじゃないの?」って思うところがあるんで
lnpp2にどれだけ反映させるかは別にして
文章化してみたいと思う。

(2010年12月7日 23時35分)

反訴の管轄権要件は同意原則の例外なんじゃないの?

直感でもの書く。国際裁判の動態p50。
反訴の要件として「反訴が裁判所の管轄に属し」とする規則80条1項をあげて
「反訴という特殊な提訴方法による,同原則の適用を免れることは許されないのである」
と書いているんだけど
直感でもの書く(大事なことなので2回繰り返しました(笑))
李先生は本書の冒頭で一方的提訴に絞って論ずることを宣言している以上
ここでも一方的提訴に対する一方的反訴を述べているはずで
一方的提訴に「せず」反訴にした理由として
「反訴とすることで,その訴訟についての同意管轄がなくても提訴できる」
ことにこそ重点があるんじゃないかと思うんだが……。

これは私自身もっと検討しなきゃいけないところなんだけど
……これ検討したらlnpp2の完成がまたさらに遅れそう(泣)

(2010年12月7日 0時01分)

それは「所有権に基づく返還請求権(いわゆる物権的請求権)」に類した法理か?

国際裁判の動態p26
主権確認請求に主権内にあった物の返還請求を加えることが訴えの変更となるかどうかの議論において
プレア・ビヘア事件判決を検討しているんだけど
その中でこんな一節があるのさ。
「ここで裁判所は,日本法で言う「所有権に基づく返還請求権(いわゆる物権的請求権)」に類した法理を採用しているといえる。つまり,口頭手続中に主張された請求でも,それが原請求において主張された権利(本権の場合は主権)の一効力であるゆえ,原請求に潜在していたものと見なされたのである。」
このくだり,何回読んでもひっかかる。
「所有権に基づく返還請求権に類した法理」は
「原請求に潜在していた請求であるか否かによって訴えの変更にあたるか否かを検討する」問題について
何も語っていないし,
日本法でこの点について語っているのは
むしろ「給付訴訟が可能な場合の確認訴訟の是非」の論点なんだよなあ……。
したがって,これを「つまり」で受けちゃうのがどうにもひっかかる。
多少善解して「ここで~いえる」は全くの修飾で,
「つまり」はその前の一節を受けているんだとしてもいいし,それはそれなりに読めるんだけど,
それだと「つまり」の前の文章の方がよほど読みやすく
「つまり」以後がかえって難解な文章になっていて
ぜんぜん「つまって」いないのである。

しかも日本法では所有権に基づく返還請求権≠物権的請求権ではないからなあ。
物権的請求権=返還請求権+妨害排除請求権+妨害予防請求権
……しかもこれ法理か?明文はないが解釈で認められる権利そのものなのだが……。

(2010年12月6日 23時48分)

国際裁判の動態

李禎之「国際裁判の動態」信山社を読み始めたところなんだけど
この本って「法解釈学」というよりは「法社会学」に見えるんだけど
私の修行不足かしらん……。

もっとも「国際訴訟法学」的な文献はなかなか市販されないんで
おおいに参考にさせてもらうつもりなんだけど……。
(2010年12月6日 0時41分)

戦争犯罪と法

多谷千香子「戦争犯罪と法」岩波書店を読んだ。
ずいぶん読みやすい本だと思ったら,
著者の経歴に,日本の検事をしていたことがあって,納得。
……裁判に携わる経験があると,ある種の共通の基盤ができるんだと思う。
  国際法プロパーの先生だとその基盤を感じないことが多いのも事実。
国際法上の戦争犯罪について端的にまとまっているよい本だと思います。
……あたしもこういう法学書を岩波書店から出せる人間になりたいとも思ったよ。
(慧文社さん,ごめん。
 でも慧文社さんも
 「うちは研究者を育てるのが目標ですから,ある意味,早くうちを卒業してくださいね」
 と言ってくれたんだし,
 このくらいの目標を立てるのは許してくれるでしょう……。
 売れるようになっても慧文社から出し続けるし!)

この本にも賛成できない部分はある。
それは刑罰の抑止力という点で,
著者は,戦争犯罪の抑止のためには,処罰以外にはないと言いきっているんですよ。
さすが検事出身って感じもするんだけど……。

で,この前提には
「裁判では(全知全能の神様が把握している)客観的事実がわかる」
という発想があると思うんですよ。
でも……正直私にはそういう発想はないです。
むしろ「裁判では客観的事実がわかる保障はない」と思っています。
この点は日本法では説明しやすいんだけど
まあそれは次回作か次々回作で触れるのでお楽しみにってことで……。

で,刑罰を前提にした裁判システムで真実がわかることが多いのは
確かに刑罰を前提にシステムだからとは言えそうなんだけど
それが絶対的ではないことは
アメリカだと刑事免責を与えた上で航空機事故の原因追及をすることが多いことで
十\分証明できていると思うんですよ。
すなわち「刑罰を課せられるからこそ本当のことを言わない。」
のもまた事実なんだと。

となると
著者が指摘する
「国際裁判で戦争犯罪を裁くことが,国民にとっても隠された真実を明らかにすることになる。」
というのが,そんなに単純な話でもなさそうだよ……ってことになると思うのです。

そしてもう1つが
「戦争犯罪人をきちんと処罰することしか戦争犯罪は防げない」と言わんばかりの論調。
間違いとまでは言うつもりはないんだけど……。

そもそも戦争(もしくはこれに類する武力衝突)がなければ戦争犯罪はあり得ないわけで,
そこで第2次世界大戦後は
「協力のための国際法」とも称される
各国の積極的な行動を期待する国際法が
主に経済的な面を中心に形成されつつあるのに
こういうことが戦争防止にも役立つのは明らかであるにもかかわらず
「処罰による規制しかない」
と言いきってしまうのは,国際法の現状を否認しすぎてはいないのか?……と。

この対極にあるのは羽仁五郎の「都市」を中心とする一連の著作で
「社会がしっかりしていれば犯罪は減らせる」
という言説で
「犯罪者0」というのはさすがに誇張というか無理があると思うけど
防げた犯罪があるのも事実で
協力のための国際法はまさに戦争防止策という意味もあるだろうと考えるのが相当。
それを「戦争犯罪人の処罰しかない」的に書くのはさすがに書きすぎだろう……と。
(2010年8月14日 23時56分)

なぜ条約は国内法としての効力をもつのか

国際法と国内法の優劣について
古典的枠組みの議論において
一元説をとった場合
国際法畑の人の多くが国際法優位と説くのに対し
憲法畑の人の多くが憲法優位と説くのは
有名な話ですが
(なもんで,「国際法と憲法,どっちが優先?」って聴くと
 結構高い確率でその人が得意な方を見分けることができるのですが)
「ところで憲法サイドではそもそも条約が国内法の効力を持つことについて
 どう理由づけしているのかな?」
って思って
佐藤幸治と芦部の各概説書読んでみたんだけど……
書いてない……。

論文とかも探さないとだめか~。

それとも「だって効力持つんだもん」で投げちゃっているのか……。
(2010年1月13日 20時53分)

private act

イギリス議会が個人の救済を目的にその個人にのみ適用する目的で制定する法律。
「国際法からはじめよう」では
「private act 私法律もしくはpersonal act 個人法律」として紹介しているんだけど
大木雅夫「比較法講義」東京大学出版会では、アメリカではprivate lawとした上で
public act, public lawと対置して
「個別法律」と訳すべきであると指摘していました。

議院内閣制が立法と行政の不分離ととらえる見方は知っていたけど
private actを立法と行政の未分離ととらえる見方は正直知らなかったので
なるほどなあと思った次第。

ちなみに日本で立法と言えば=public actであって
private actは法ではないということになっているんだけど
オウム真理教に係る破産手続における国の債権に関する特例に関する法律
(平成十年四月二十四日法律第四十五号)
なんて相当private actだと思いませんか?

だって条文は以下のとおりで全て
(趣旨)
第一条  この法律は、平成七年三月二十日に発生した地下鉄サリン事件等において不特定又は多数の者が被った惨禍が未曾有のものであることを踏まえ、オウム真理教に対する破産申立事件において債権を届け出た被害者の救済を図ることの緊要性にかんがみ、当該破産申立事件における国の債権に関する特例を定めるものとする。
(国の債権に関する特例)
第二条  東京地方裁判所平成七年(フ)第三六九四号、第三七一四号破産申立事件においては、国が届け出た債権のうち労働者災害補償保険法(昭和二十二年法律第五十号)その他の法律の規定に基づき国が取得した損害賠償請求権及び東京地方裁判所平成七年(チ)第一一号、第一二号清算人選任申立事件における予納金に係る償還請求権は、国以外の者が届け出た債権のうち生命又は身体を害されたことによる損害賠償請求権に後れるものとする。

裁判所の事件番号で特定された破産事件についてのみ適用されるんだよ。

ちなみに
特定破産法人の破産財団に属すべき財産の回復に関する特別措置法
がpublic actであることに疑いは持ってないけど。
(2009年9月12日 23時57分)

戦争法

「そ~れはあなたの理解が足りないだけ」って言われてしまえばそれまでなんだけど
戦争法はどうもよくまとまらない。
筒井先生の「違法の戦争,合法の戦争」を読んだら少しはまとまるかなあと思って
読み直してみたんだけど
……混迷の度が増したような気がする。

プライベートもぱっとしていないので
単純にその影響であることを……祈りたいにゃあ。
(2009年8月11日 21時34分)

市民権

ことの発端は国籍の話を書いてて,国際関係法辞典が
「国籍=市民権だが違う国もある」
って趣旨のことを書いてて
「本当か?」って思ったところから。
ちなみにnationalityを国籍
citizenshipを市民権
civil rightsを公民権と訳している辞書が多い。

で,アメリカはnationalityとcitizenshipを区別しているらしいけど
そういう国の方が少数で
nationalityとcitizenshipを区別していない国の方が多い。
また連邦国家で支分国が連邦との関係でcitizenshipを持つという表現もある。
そうすると……
国家の構成員の地位たる「国籍」と
国家の構成員の地位たるcitizenshipが同じというのが説明つく。
一方citizenはいかにもcityから転じたことがまるわかりであるように,
都市住民というニュアンスを持つ。
ちなみにこの場合のcityは日本の市町村の市と同一に考えちゃいかん。
近いのは「自治都市」って訳。
羽仁五郎のいう「都市の空気は人を自由にする」っていう文脈における都市。
そこでcitizenを自治都市の民衆というニュアンスで市民と訳して
citizenshipを市民権と訳し
それと区別する意味でcivil rightを公民権って訳し分けるというのは
それほど非難できないかもしれない……。
だけど……。
法的にはちょっと危険な水域かな……って思うのだ。
というのは,憲法業界ではB規約として有名だけど
国際法業界ではあんまりそういう言い方をしなくなった
「市民的及び政治的権利に関する国際規約」の英文名って
「International Convenant on Civil and Political Rights」なんです。
すなわちCivil Rightsは「市民的権利」であり
実際あげられている権利は
各種の自由権なんですね。
参政権が政治的権利なのはもう説明の必要もないだろうし……。

そして日本の国内法で公民権と言った場合
これは選挙権であり被選挙権なんです。
……もっとも正確にそう定義した条文は今はないんだけど。
  でもその名残は公職選挙法違反罪の処罰の際の選挙権の停止が
  業界用語では「公民権停止」と言われていることに残っている。

で,ここまで用意してようやくアメリカにおけるこの3つの概念の使い分けが
見えてくるんですな。
アメリカのいわゆる公民権運動ってcivil rights movementなんだけど
別に選挙権を求めていたわけじゃないよね。
アメリカ合衆国憲法修正14条が言われたけど
とても日本の言う「公民権」ではない。
そして象徴的なのは修正14条にはcivil rightって言葉はなくて
citizenshipとnationalityが違うって文章になっていること。
(国籍の付与について出生地主義をとっているから
 「生まれたか帰化した者」だけだったらnationality=citizenshipになるけど
 なんと「生まれたか帰化した者」にさらに制限を加えて
 (and subject to the jurisdiction thereof)
 それが citizens of the United States and of the Stateだと言っているのです。)

なもんで
アメリカで「国籍と市民権は違う」というのはそのとおりなんだけど
nationality=国籍
citizenship=市民権
civil rights=公民権
としちゃうのは大変危険な領域だよと思ったのでした。
(2009年7月28日 0時41分)

法の一般原則の例

岬龍一郎「欲しがらない生き方」角川oneテーマ21の中に
「人間が人間として社会の中で生きていくとき,いちばん大切な徳は「正直」ということである。イギリスの諺にも「正直は最善の策」とあるように,どの民族にもみられる普遍的な道徳観である。それは人間が秩序ある社会を築こうとするとき,守らねばならない最低のモラルだからだ。すべての徳はこの「正直」から始まるといってよい。「嘘をつくな」「約束を守れ」「不正をするな」「卑怯なことをするな」と,あらゆる道徳の源泉である。もしこの最低限のモラルを破れば,その人は「嘘つき」「卑怯者」と呼ばれ,誰からも信用されなくなり,社会からつまはじきになるからである。」(p101)
という記述があるんだけど,
これって法の一般原則としても説明つくんじゃないか?
なんて思った。
……ちょっと検討してみよう。
(2009年7月8日 22時03分)

法の支配

「法的なことが法的に行われていること」
……だめかなあ。
(2009年7月5日 21時27分)

租借

中国語に関する本を読んでいたら
「租」は、有償の貸借(=日本民法でいうところの「賃貸借」)
「借」は、無償の貸借(=日本民法でいうところの「使用貸借」)
だそうで……。

もしかして……。
租借地の「租借」って言葉はそこから来てるの?
(2009年6月20日 21時59分)

SDR

IMFの外貨準備から貸付を受けられる権利で,
「特別引出権」という直訳が与えられるんだけど
一方でその本来の意味よりも
「国際機関等で金銭的価値を表す単位」として使われる方が
今は多いんだよね。

でも,白状すると,今までどうも理解しきれなかったような気がする。
今回調べて見てある程度わかったつもりなんだけど……。

そうしたら説明が長くなる長くなる。

……ま,いいか。それは個性!(笑)
(2009年6月17日 22時57分)

先決的「抗弁」に「異議」あり

英米法の田中英夫先生の「英米法のことば」有斐閣の中に,こんな一節があります。
「法律学は,言葉を軸としている。さまざまの法律用語の意味を正確に把握することは,法学学習の基礎的訓練の一つである。」
そして
「ある言葉の元来の意味について誤った理解を与えるおそれの大きい訳語を用いることは,絶対に避けなければならない。」
「日本の法律用語に法学独自の意味が与えられていることが少なくないように,外国の法律用語も,その国の法の全体の構造とその歴史を背景に,その意味内容が形成されているのである。」
という指摘を行っているのですが……。

この点において「誤訳級の不相当だ」と断言したいのが,「先決的抗弁」だったりします。

国際司法裁判所の裁判所規則の第79条に
「裁判所の管轄権若しくは請求の受理可能性に対する被告のすべての抗弁又は本案手続に進む前に決定を求められるその他の抗弁」
とあるのが先決的抗弁で,
その効果としては本案の前に審理をして,
先決的抗弁に理由があれば,本案の審理をすることなく,
判決で先決的抗弁を認めて訴訟手続を終了させることになるのですが……。

これ,本当に「抗弁」なんでしょうか?

広辞苑では抗弁について「相手にさからって,自分の立場や考えを述べること」という説明もしています。
明鏡国語辞典や新明解国語辞典でもこの用法は出ています。
歴史的に見ればこちらの方がむしろ本義。
で,この用法で使ったとすれば誤りはないと思います。
だけど,法律をある程度勉強した人なら,法律の話で抗弁と言ったら
まず日本の「民事訴訟法」でいう「抗弁」じゃないんでしょうか。

民事訴訟法では抗弁と(積極的・理由付)否認とを明確に分けて使用します。
例えば貸金返還請求訴訟を想定しましょうか。
おおざっぱな言い方をすると「お金を借りたら返さなければならない」というルールがあります。
お金を貸したけど返してもらえない人が裁判を起こすなら
「被告は原告にお金いくらいくらを支払え」
という判決を求めて訴えるわけですね。
そしてその判決を求める理由として
「いついつにいくらをいつまでに返す約束で貸した。」
こと(のみ)を主張すればいい。
民事訴訟法を勉強すれば習うことなのですが
「しかし、現時点で返してもらっていない」
ということを原告が主張する必要はないんですね。
そして被告がこれを争ったとしましょう。
「そもそもお金は借りていない」
「お金は借りたけどもう既に返した」
……etc

もし「そもそもお金は借りていない」というなら
「本当にお金を貸したのかどうか原告が証明してくださいね」
ということになる。
もし「お金は借りたけどもう既に返した」というなら
「お金は借りてないこと」は争ってないから
「お金を返したかどうか被告が証明しなさいね」ってことになる。

これ被告の答弁としては
「原告の請求を棄却する」
ということで一緒なのですが
その後の訴訟手続の展開って
「原告が証明しなきゃいけないのか、被告なのか」
という大きな違いができているでしょ?
民事訴訟法ではこのことに着目して
「そもそもお金は借りていない」は「否認」
「お金は借りたけどもう既に返した」は「抗弁」
と使い分けているのです。

しかも……
これ原語を見ても使い分けしているようなんですよ。
先決的抗弁にあたる語の英語を探してみると
objectionなんですよ。
で、英米法でobjectionというと
日本流に説明的に言うと「責問権行使としての異議」なんですね。
イギリスやアメリカの法廷で何かというと弁護士が立ち上がって
「異議あり」っていう。
あれです。
ちょっと余談になりますが、それに対する裁判官の応答に
「却下します」
の他に
「記録にとどめます」
と言っていることがある。
なんでこんなことになるかというと
objectionは何らかの訴訟行為があったら速やかに言っておかないと
あとで言っても「遅い」というだけではねられるし
さらに上訴の理由としても使えないって制限があるんですね。

また日本の民事訴訟法の抗弁に相当する語として
affirmative defence
というのもあるんです。

ところが国際司法裁判所の先決的抗弁の実際の手続って
本案審理については停止して先決的抗弁の審理をやるのですが
管轄権の抗弁だったら、管轄権の存在については
原告が主張・立証責任を負う判断をしているのが圧倒的ですし
受理可能性その他の先決的抗弁はその内容によっていますが
少なくとも
「相手の主張は認めた上で」なんてことは
全く要求されていないのです。

なんでここで「objection」に「抗弁」という語を使うかなあ?
って思いません?
(2009年6月13日 22時14分)

国有化と収用

……また定義が違ってた……。
国際関係法辞典は違うと言っているし
筒井国際法辞典は同じだと言っているし……。

これも英米法辞典を見てみると……。
なんとなくどっちもあたっている一方で
若干違うんじゃないかと思ったので
自分なりに定義を与えてみました。
(2009年6月4日 21時21分)

外国語をかな書きするってことは

標準的な表記がなくて結構困るよな~。
「そんな字,日本にあったの?」という「ヴ」を筆頭に
小さいァィゥェォを使う流儀と使わない流儀だとか。
ラテン語のjus cogensですら「ユース」と「ユス」の2通りある。
う~ん。
(2009年6月2日 22時32分)

安導券と安全通行証

違うものだとしているのが国際関係法辞典,同じだとしているのが筒井先生の国際法辞典。
さあ,どっちだ?
英語を見るとself-conductとpassportという訳が与えられているけど
英語の辞書では区別できない。
……だってpassportって法学用語離れて一般用語化していると思うなあ。

今のところ英米法事典が歴史的な経緯を書いていて,それによると歴史的には別物だったみたいなので,
その線で行こうかなって思ってます。
(2009年5月22日)

禁反言

estoppel
すっごく俗っぽい説明として
「そんなの聞いてないよ~という反論を認めること」
って思いついたんだけど,
さすがに本にこう書くわけにはいかないだろうな~。
(2009年5月19日 23時29分)

田岡良一「国際法」新版の序 から

Francisco de Vitoria(フランシスコ デ ヴイトリア)がサラマンカ大学の教壇に立ったときから数えても、国際法学は四世紀半の長い伝統をもつ学問である。偉大な多くの先輩の恩沢に浴して、及ばずながらその衣鉢を継ぐわれわれの任務は、これら先輩によって開拓され体系化された国際法の原理を、正しく理解し咀噛して、誤りなくこれを後世に伝えることである。といっても、先人の書を引き写して、ただこれを、旧い文章を新らしい言葉で書き改め、現代の人々に理解し易いようにして出せば任務は済むという訳のものではない。流動する国際社会は、次々に新らしい事実を生み、新らしい国際関係を作り出す。従来の国際法の原理を、これらの新現象に当てれば、反射して出来る映像は、過去にはなかった新らしい国際法規であることもあろう。またこの新らしい現象を説明するためには、従来の国際法学が用いなかった概念を新らたに工夫し鋳造することも必要になるであろう。だから伝統的な国際法学の理論を受け継いでこれを後世に伝えるという簡単そうに見える仕事にも、不断の注意と工夫が要請される。しかしこのようにして外形は変化して行こうとも、私らの学問の精神は、長い伝統をもつ国際法学を誤りなく後世に伝えることにある。その説に新味を与えるために、それが従来の国際法の原理に照らして許され得るものかどうかを考えずに、国際法の新理論なるものを説く立揚を、私らは採らなかった。

この本って私が最初に読んだ法学の本です。
当然最初に読んだ国際法の本でもあります。
高校時代ですから今から30年近く前ですか。いせや書房という函館の老舗の古本屋で買ったものです。

で,この前ふと気づいたのですが,この序文に書かれている姿勢って,今の私のスタンスでもあるんですね。本人あまり意識してこのスタンスに立ったわけではなかったのですが……。

というので,この本は,私のはじめての法学の本であると同時に,私のその後を決定付けた本でもあったのでした。
(2009年5月26日 21時57分)


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